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429 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(80)
白村江の戦(3)
2006年1月29日(日)


 「日本書紀」は「白村江の戦」をどのように記録しているか。
 『旧唐書』『三国史記』によれば「白村江の戦」は662年に戦われた。天智元年に当たる。しかし日本書紀は天智2年(663)8月としている。こんな大事件なのに一年のずれがある。関係記事を、古田さんは次のように抄録している。

663年(天智2年)
(A)3月
 前将軍、上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)・間人連大蓋(ましとのむらじおはふた)、中将軍、巨勢神前臣訳語(こせのかむさきのおみをさ)・三輪君根麻呂(ねまろ)、後将軍、阿部引田臣比邏夫(ひけたのおみひらぶ)、大宅臣鎌柄(かまつか)を遣はし、二万七千人を率て新羅を打たしむ。

(B)6月
 前将軍、上毛野君稚子等、新羅の沙鼻岐奴江(さびきめえ)、二城を取る。

(C)8月
13日
 是に、百済、賊(新羅)の計る所を知り、諸将に謂ひて曰く、「今聞く、大日本国の救将、廬原(いほはら)君臣、健児万余を率ゐて、正に海を越えて至らむ。願はくは、諸将軍等は預(あらかじ)め図るべし。我自ら往きて白村(はくすき)に待ち饗(あ)へむ」と。
17日
 戊戌、賊将、州柔(つぬ)に至り、其の王城を繞(かこ)む、大唐の軍将、戦船一百七十艘を率ゐ、白村江に陣烈す。
27日
 戊申、日本の船師・初めて至る者、大唐の船師と合戦す。日本不利にして退く。大唐陣を堅くして守る。
28日
 己酉、日本の諸将、百済王と、気象を観ずして、相謂ひて曰く、「我等、先を争はば、彼応(まさ)に自(おのづか)ら退くべし」と。更に、日本の乱伍の中軍の卒を率ゐ、進んで大唐の堅陣の軍を打つ。大唐、便ち左右より船を爽(はさ)んで繞戦(じょうせん)す。須臾(しゅゆ)の際、官軍敗続す。水に赴いて溺死する者衆(おほ)し。艫軸(へとも)、廻旋するを得ず。……其の時、百済王豊璋、数人と船に乗り、高麗に逃げ去る。

 この記事に対する古田さんの論述は次の通りである。


 「前・中・後軍」の陣立ての中で、「上毛野君稚子」が筆頭にあげられてある。第二巻の好太王碑のところでのべたように、王と王子等が先頭に立って戦う慣例から見ると、この人物のもつ役割は大きい、と見ねばならぬ。
 しかし、右の(A)(B)の記事の以後、彼の名は一切現われない(この六将軍のうち、「巨勢神前臣・三輪君根麻呂・大宅臣鎌柄」の三人も同様、他に現われない。これに対し、「間人達大蓋・阿部引田臣比邏夫」のみは、あとに出現する。前者は、天武4年4月に「小錦中」を与えられ、後者は、その前後、活躍したこと著名。斉明期には「筑紫大宰帥」だったようである。 ―『続日本紀』養老4年正月27日条)。


 次いで、古田さんは次の「持統紀」の記事に着目する。

(D)690年(持統4年)10月
 乙丑、軍丁、筑後国の上陽郡(かみつやめのこおり)の人、大伴部博麻(おおともべのはかま)に詔して曰く「天豊財量目足(あめとよたからいかしひたらし)姫天皇(斉明天皇)の七年(661)、百済を救ふ役に、汝は唐軍の為に虜とせらる。天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇(天智天皇)三年(664)に?(およ)びて、土師(はじの)連富杼(ほど)・氷連老(おゆ)・筑紫君薩夜麻(さちやま)・弓削連元宝(がんほう)の児、四人、唐人の計る所を奏聞せむと思欲(おも)へども、衣粮無きに縁(よ)りて、達する能はざるを憂ふ……」


「筑紫君薩夜麻」が唐側の捕虜となっている。おそらく白江の敗戦のとき(もしくはその前後)であろう。ところが、戦いの時点には、この人物の名は一切出現しない。
 出現するのは、天智10年(671)11月、「沙門道久・韓嶋勝裟婆(すぐりさば)・布師首磐(ぬのしおといわ) 」と共に、捕囚生活から釈放されて帰ってきた記事がはじめてだ。妙な話である。
 その帰国の秘密の裏側には、(D)にしめされた大伴部博麻が、みずからの身を奴隷に売って、彼等の帰国の資を得るという献身の美が存在したのであった。

 では、この「筑紫君」が、捕囚された経緯は何か。『日本書紀』は、明白にそれをカットしているから知りえない。知りえないけれど、分ることは、一に、先の「前・中・後軍」の中に入っていないこと。入っていれば、1六将軍以上」の存在であることだ。そして先ほどもふれたように、「王」が陣頭に立つ。これが東夷の国々の武勇の伝統であった。好太王碑にも『三国史記』にも、点々とそれはしめされていた。倭王済の父子も、同じ運命を辿っていたようである。

 以上の考察からすれば、答は次のようだ。
 (一)筑紫君薩夜麻(天智10年11月項では、薩野馬の卑字)は、対唐戦に参加していた。
 (二)「前・中・後軍」の三軍の上にあり、これを陣頭で統率していた。

 すなわち、右の帰結は次のようだ。――"(A)の三軍派遣の主語は、本来「筑紫の君」であった″ と。
 以上のように理解するとき、この記事は、中国や朝鮮半島側の史書と一致するのである。



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