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428 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(79)
白村江の戦(2)
2006年1月29日(日)


 「白村江の戦」を「旧唐書」の「百済伝」と「帝紀」で読んでみる。
 。
660年(顕慶5年)
 百済の僧、道?、旧将、福信、衆を率いて周留城に拠り、以て叛す。使を遣わして倭国に往かしめ、故王子、扶余豊を迎え、立てて王と為す。(百済伝)

(イ)八月庚辰、蘇定方等、討ちて百済を平らげ、其の王、扶余義慈を面縛す。
(ロ)十一月戊戌朔、?国公、蘇定方、百済王、扶余義慈、太子隆等五十八人を献じ、則天門に俘とし、責(せき)して之を宥(ゆる)す。(帝紀)

 百済の将・福信の策戦により王位についた「扶余豊」とは、倭国で人質生活を送っていた王子である。
 これに対し、唐側が擁立していた百済王は「扶余隆」という。上の記事で福信を「旧将」と呼び、扶余豊を「故王子」と呼んでいるのは、その時点では彼等は百済の正規な将でも、現役の王子でもなかった、という唐側の立場を表明していることになる。

662年(龍朔2年)
 (7月、扶余豊)又使を遣わして高麗及び倭国に往かしめ、兵を請いて以て官軍を拒(ふせ)がしむ。

仁軌(帯方州刺史、劉仁軌)、扶余豊之衆に白江之口に遇い、四戦皆捷つ。其の舟四百艘を焚き、賊衆大潰す。扶余豊、身を脱して走る。偽王子、扶余忠勝・忠志等、士女及び倭衆を率いて並びに降る。百済の諸城、皆復(また)帰順す。孫仁師(左威衛将軍)と劉仁願(郎将)等と、振旅して還る。(百済伝)

 いわゆる「白村江の戦」である。唐側が連戦連勝したことを伝えている。しかし「旧唐書・帝紀」には「白村江の戦い」の記事がない。これについて古田さんは次のように論述している。


 ことは、本質的に、上の(イ)(ロ)の事件であり、顕慶五年という「白江の戦の二年前」に、すでに、終結していたのである。
 では、二年後の「白江の戦」とは何か。〝百済の叛徒を倭国や高句麗が救援した。それを新しい百済王の扶余隆と共に、これを討滅した″。いわゆる残敵掃討戦にすぎないのである。
 そして〝叛徒を支援した、高句麗は新羅に、倭国は日本によって、滅ぼされ、併呑され、消滅した″。さらに新百済も、新羅に併呑された。
以上が、東アジアの中心国たる大唐の目から見た、戦後処理であった。



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