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590 唯物論哲学 対 観念論哲学(12)
アリストテレスの「二重霊魂」説
2006年8月26日(土)


 実は『こころとことば』の「もう一人の自分(1)」の文末に次のような 文があった。

 このように、私たちが想像をはじめると、現実の自分から「もう一人の自 分」が頭のなかで分離して活動をはじめ、想像をやめると「もう一人の自分」 も消えてしまうのです。けれども、これをほんとうに「もう一人の自分」が 別にいるのだ、現実の自分と関係なしにはじめからいたのだと解釈した学者 もいます。ギリシャの有名な哲学者アリストテレスは、現実の自分のほうは 死んですがたを消すけれども、「もう一人の自分」のほうは肉体から分離し て永遠に生きつづけ、新しい肉体にまた外から入りこむと考えていました。 昔の人の考えそうなことですね。

 このアリストテレスの学説については少し詳しく調べたいと 思って、「もう一人の自分(1)」では取り上げないでいた。
 この学説は「二重霊魂」説と呼ばれている。③「現実の世界と観念の 世界」でも次のように言及されている。

 ところで、観念の世界の観念的な時間について考える場合、ひいては認識の ありかたをとりあげる場合に、見落すことができないのは、私が観念的な自己 分裂とよぶ事実である。

 一人称小説であるポオの『モルグ街の殺人事件』の中で、「私」は友人である オーギュスト・デュパンの分析能力について語り、分析の結果を語っている 彼の態度に「二重のデュパン」を感じるという。この「私」はアリストテレス の二重霊魂説を想起しているのだが、ポオがその鋭い眼光で見抜いたように、 人間が想像力を発揮して対象を分析する場合に自分を二重化するという事実は、 すでに古代の哲学者によって理論的に問題になっていた。

 俗流唯物論者は、この二重化という事実を無視して認識を解釈するし、観念 論者はその世界観に制約されてこの事実を正しく扱うことができない。精神医 学者とよばれる人びとは、俗流唯物論の立場に立つかあるいは観念論的認識論 の影響を受けていて、人間の正常な活動としての観念的な自己分裂を何ら理解 していないし、自分を二重化することは誰でも日々実践している日常茶飯事で あって、異常なありかたでも何でもないことを自覚していない。正しい唯物論 がこの自己分裂の理論をふくむとは考えないで、精神病は体質によって完全に 規定されてしまうと見るのが唯物論的な考えかただと思いこんだり、実存主義 的な解釈によって理論化しようとしたりしている。


 三浦さんは「認識論」や「言語論」の研究を一種の「謎解き」と考えて楽しんで 研究していた。従って、「謎解き」小説が好きで、特にポオの小説からは学 ぶことが多いと言ってもいた。「観念的な自己分裂」についての考察もポオの 小説がきっかけだったようだ。

 アリストテレスの「二重霊魂」説は「霊魂について」という著作で述べられている。 直接アリストテレスを引用したかったが手元に資料がない。ラッセルの「西洋 哲学史」(市井三郎訳 みすず書房)からその解説を引用する。

 「霊魂論」において彼(アリストテレス)は、「魂」と「精神」とを区別 し、精神は魂より高次であり、より少ししか肉体と結びあっていないとする。 魂と肉体との関係について述べた後、彼は次のようにいう。

「精神の場合は異なっている。精神は魂の中に植えつけられた独立の実体 であるように見え、滅ぼし得ないもののように思える」。

 また次のようにもいう。

「精神すなわち考える能力については、われわれはなんの証拠ももっていな い。精神は、きわめて異なった種類の魂、いわば、永遠なるものが滅び得る ものと異なっているほどに異なった魂、であると思われる。精神は、他のす べての心的諸能力から孤立して、それ自身で存在し得る。すでに述べたこと から明白なのだが、魂の他のすべての部分は、若干の相反する言明があるに もかかわらず、切り離して存在することは不可能なのである。」


 アリストテレスは「魂とは自らのうちに運動と静止の原理をもっている特定の 自然物体(生物)のロゴスである」と定義している。深入りするといろいろと 面倒な思弁世界にはまり込むのでここではこの定義で満足することにする。 私たちになじみのある言葉で言えば、魂とは「ロゴス=理性」ということになる。

 「認識と言語の理論 第三部」に『「二重霊魂」説の系譜』という章がある。 この中で三浦さんはシュヴエグラーの『西洋哲学史』からアリストテレスの 「二重霊魂」説についてのシュヴエグラーの解説を引用している。

 アリストテレスは人間のうちに二つのヌースを区別しているのである。 一つは有限で、一時で、個人に属し、個人と生死をともにするものであり、 もう一つは永遠で肉体から分離しうるもの、神の理性と同一なものである。 かれは前者を受動的理性、後者を能動的理性と呼んでいる。

 シュヴエグラーは「魂」を「ヌース=理性」と言っている。そしてラッセル からの引用文中の「魂」と「精神」をそれぞれ「受動的理性」、「能動的理性」と言っている。三浦さんはこの用語を用いて いる。
 ちなみに「霊魂について」の原題は「デ・アニマ」という。霊魂=アニマ (ラテン語)であり、アニマをもつものを動物(アニマル)と言う。アニマ ルの語源でした。

 再び「現実の世界と観念の世界」から。

 ポオが注目したアリストテレスの二重霊魂説では、人間の理性を二種のもの に区別する。一つは有限で一時的で個人に属し個人と生死を共にする「受動的 理性」であり、いま一つは永遠で個人の肉体から分離できる「能動的理性」で ある。現実的な自分の対象認識が受動的な反映であるのに対して、回想や予想 の想像活動が能動的な精神活動であることを考えるなら、観念的な自分のあり かたを「能動的理性」と解釈した理由も察しがつくというものである。

 この二つの理性の関係については、「能動的理性」のほうを基礎と見て、 「受動的理性」はこれに依存するものと解釈している。現実的な自分が死んで しまうことは疑いないから、「受動的理性」は有限で個人と生死を共にする と見たのは当然である。ところが、われわれがこの現実の世界を感覚的に与 えられたありかたを超えて永遠なものと考えるとき、観念的に永遠の世界を 対象として扱うと同時に、それに対する観念的な自分のほうも同じように永 遠の存在として位置づけている。現実的な自分は有限なのに観念的な自分は 永遠だとすれば、この次元のちがった二つの自分を同じ次元においてしか比 較できなかった哲学者にとって、永遠な存在こそが基礎でそこから有限な存 在があらわれて来るのであり、有限な存在は消滅しても永遠な存在のほうは それと無関係に残るのだと解釈するのも納得できる話である。


 すなわち、アリストテレスは現実の世界の自分(受動的理性)と観念的に 分裂したもう一人の自分(能動的理性)があることに気づいていたが、 『「能動的理性」のほうを基礎と見て、「受動的理性」はこれに依存するも のと』いう典型的な観念論的な転倒した解釈をしている。

 古代哲学は原始的な、生まれながらの唯物論であった。そういうものであっ たかぎり、それは、思考の物質にたいする関係をつきつのてきわめることがで きなかった。だが、この点を明らかにする必要が、肉体から分離できる霊魂に ついての学説を生み、ついでこの霊魂の不滅の主張を、最後には一神信仰を生 みだした。こうして、古い唯物論は観念論によって否定された。

 しかし、哲学がさらに発展してゆくにつれて、観念論もまた維持できなく なって、近代唯物論によって否定された。否定の否定であるこの近代唯物論 は、たんに古い唯物論の復活ではなく、古い唯物論の永続的な基礎の上に、 なお2000年にわたる哲学および自然科学の発展と、さらにこの2000年間の歴史 そのものとの思想内容全体をつけくわえたものである。それはもはや哲学では まったくなく、たんなる世界観であり、そして、この世界観は、なにか特別の 科学中の科学においてではなく、現実の諸科学においてみずからを確証し、 実証しなければならないのである。

 こうして、哲学はここでは「揚棄」されている、すなわち「克服されている とともに保有され」ている。その形式からいえば克服され、その現実の内容か らいえば保存されている。(「反デューリング論」より)


 しかし現在でもなおアリストテレス的な観念論が恥ずかしげもなく大手をふるって 大きな顔をしている。
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〔2006.02.07記〕 『三浦つとむ選集3 言語過程説の展開』(勁草書房)の冒頭に載せられた「『言語過程説の展開』から『日本語はどういう言語か』さらに『認識と言語の理論』へ」の中で三浦つとむは次のように書いて
2006/08/26(土) 15:27:44 | ことば・その周辺