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249 日本のナショナリズム(2)
「大衆」とは何か
2005年4月21日(木)


 これからお世話になる論文を改めて書き留めておく。

吉本隆明「日本のナショナリズム」(「自立の思想的拠点」所収)以後吉本論文と呼ぶ。
色川大吉「日本のナショナリズム論」(「岩波講座・日本歴史17」所収)以後色川論文と呼ぶ。
菅谷規矩雄「詩的リズム」(大和書房)これはずばり「詩的リズム」と呼ぶ。

 さて、吉本論文はまずナショナリズムと言う言葉の意味とナショナリズム論の混迷状況から 説き起こしている。
 「ナショナリズム」というとき、ひとによってさまざまなかげりをこめて語られる。社会学・政治学 の範疇では、世界史が資本制にはいってから後に形成された近代国家そのものを単元として、社会や政 治の世界的な諸現象をかんがえる立場をさしている。近代資本主義そのものと相伴う概念である。
 しかし、「ナショナリズム」という言葉が、世界史の尖端におくればせに登場した国家・諸民族に よってかんがえられるばあい、民族至上主義・排外主義・民族独立主義・民族的革命主義などの、さま ざまなかげりをふくめて語られる。そこでは、すでに規定そのものが無意味なほどである。
 さらに、これが、日本の(ヽヽヽ)「ナショナリズム」として、明治以後 の日本近代社会におこった諸現象について語られるとき、天皇制的な民族全体主義・排外主義・超国家 主義・侵略主義の代名詞としての意味をこめて、怨念さえ伴われる。もちろん、この場合でも、桑原 武夫・加藤周一その他におけるように、近代日本資本主義社会の体制的表現としてのナショナリズムの 意味でつかわれ、その再認識が語られるばあいがないわけではない。しかし大抵は、日本のナショナリ ズムは、天皇制を頂点とする排外主義・帝国主義・膨脹主義の権化としてリベラリスト・進歩主義者・ 「マルクス主義」者の指弾の対象として取上げられるか、あるいは、この反動として日本近代天皇制 トオタリズムの再評価すべきゆえんとして語られるか、である。
 さらに、日本の「ナショナリズム」が、政治や社会の諸現象のレベルをはなれて、体験のレベルとし て、それぞれの個人によって語られるや否や、あらゆる論議は、冷静さを失い、その様相は一変する。 つまり、日本の「ナショナリズム」は、まだ論理的な対象として分離されない段階にあることがわかる。

 戦後のナショナリズムについて、最近、小熊英二さんがそれを論理的な対象となして「<民主>と <愛国>」という成果をあげているにもかかわらず、ナショナリズムをめぐる社会的・政治的状況は 吉本論文が書かれてから30年後の今日でもほとんど変わっていない。吉本論文は、謂わば、日 本の「ナショナリズム」を「論理的な対象として分離」する試みであり、現在でも意義ある論文だと 思う。
 吉本さんはまず「大衆ナショナリズム」を解き明かそうと試みているが、ここで言う「大衆」の意味を 確認しておく必要がある。
 個人的な体験から世界観にわたるこの思想性の錯綜を考慮にいれたうえで、日本の「ナショナリズム」 を系譜としてとりだすことは、不可能であるとおもわれる。やむをえず、わたしの問題意識をもとにし て、これに接近するほかはない。
 わたしがもっとも関心をもつのは、決して「みずから書く」という行為では語られない大衆の「ナショ ナリズム」である。この関心は、「沈黙」から「実生活」へという流れのなかで消えてしまって、ほと んどときあかす手段がない。

 マス・コミュニケーション下にみずから登場する「知的大衆」を「大衆」と見なし、知識人にちかづく ことを高次にあるものと見なすという一般的に流通している大衆概念に反対して吉本さんは 『「大衆」を依然として、常住的に「話す」から「生活する」(行為する)という過程にかえるものと してかんがえ』ている。すなわち『けっしてマス・コミ下に登場しない「マス」そのもの』が吉本さんが言う 「大衆」である。
 この大衆が知的に上昇していったとき、『すなわち「書く」という行為と修練に参加したとき、すでに これらの大衆にとらえられたナショナルな体験の意味は、沈黙の行為から実生活へと流れる大衆そのものの思考 とはちがったものとなっている』。と吉本さんは言う。したがって戦没学生の手記、戦没した農民の 手記、疎開学童の記録、主婦の戦争体験といった記録にあらわれた体験と思想を、そのまま大衆の体験と 思想とみなすことはできないと言う。
 それでは、『「みずから書く」という行為では語られない大衆の「ナショナリズム」』をときあかす手 段はあるのか。
 このようにして、大衆のナショナルな体験と、大衆によって把握された日本の「ナショナリズム」は、 再現不可能性のなかに実相があるものと見倣される。このことは、大衆がそれ自体としては、すべての 時代をつうじて歴史を動かす動因であったにもかかわらず、歴史そのもののなかに虚像として以外に登 場しえない所以であるということができよう。しかし、ある程度これを実像として再現する道は、わたし たち自体のなかにある大衆としての生活体験と思想体験を、いわば「内観」することからはじめる以外に ありえないのである。
(中略)
 ある時代のある文化のヒエラルキーは、大衆そのものからの、彎曲を意味している。ただ、この彎曲を とおしてしか、ある時代思想は、すすめられることはないのである。文化を主軸とすればもちろん、歴史 体験を主軸とするとき、つねに大衆それ自体は、決して舞台に登場することのない主役としての存在であ ろうか? この問いは切実である。

 かくして吉本さんは自分自身の中にある『大衆としての生活体験と思想体験』への内観と、『大衆そ のものからの彎曲』したものという認識を保持しつつ大衆の文化(愛唱歌)を、『「みずから書く」という 行為では語られない大衆の「ナショナリズム」』をときあかす手段として選んで論考を進める。
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