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427 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(78)
白村江(はくすきのえ)の戦(1)
2006年1月27日(金)



 618年、中国では禅譲という形で隋王朝が滅亡し唐王朝が成立した。
 「日出ずる処の天子」が隋と対等に付き合おうとして煬帝の不興を買ったのに対して、ヤマト王権は唐にたいしてひたすら朝貢外交に始終し良好な関係を維持していた。このあたりの事情を古田さんは「日本書紀・舒明紀」と「旧唐書・倭国日本伝」の記事から読み解いている。
 まず、「舒明紀」の記事。

(1)(舒明2年=630)秋八月癸巳朔丁酉、大仁犬上君三田耜(みたすき)・大仁薬師恵日(くすしゑにち)を以て大唐に遣はす。

(2)(舒明4年=632)秋八月、大唐、高表仁を遣はして三田耜を送らしむ。

(3)(同4年10月)便(すなは)ち高表仁等に告げて曰く「天子の命ずる所の使、天皇の朝(みかど)に到ると聞き、之を迎へしむ」と。
 時に高表仁対(こた)へて曰く「風寒き日に、船艘を飾り整へ、以て迎へ賜ふ、歓愧(くわんき)す」と。

(4)(舒明5年=633)春正月己卯朔甲辰、大唐の客、高表仁等、国に帰る。

 次は「旧唐書・倭国日本伝」の記事。

(A)貞観五年、使を遣わして万物を献ず。太宗その道の遠きを衿(あわ)れみ、所司に勅して歳ごとに斉せしむるなし。
 また新州の刺使高表仁を遣わし、節を持して往いてこれを撫せしむ。表仁、綏遠(すいえん)の才なく、王子と礼を争い、朝命を宜(の)べずして還る。

 貞観五年は西暦で631年に当たる。つまり(A)は(1)と(2)の間に入ることになり、全てをヤマト王権と唐との外交記事と考えると時間の誤差が生じる。さらにそれ以上に(A)と(3)との外交の実態の決定的な相違点が大きな問題となる。

 (A)の記事について岩波文庫版は『礼を争ったことは、日本の記録にないが、当時の実状としてありそうなことである。』と注記している。このようにして「決定的な相違点」の解明を試みる学者はいない。古田さんを除いては。

 「近畿天皇家一元主義」(従来の古代学に対する古田さんの評語)を止揚した古田さんの論述は次のようである。



 (1)~(4)のように、両者ともきわめて仲むつまじいままで、帰国に至っている。
 これに反し(A)の場合、「王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」というわれている。史書としては異例のことに属しよう。

 これも考えてみれば、当然のことかもしれぬ。なぜなら、多利思北孤は、みずから「日出づる処の天子」を称していた。それが訂正された形跡はない。裴世清は口頭外交をもって、事態の悪化を回避したにすぎぬ。
 したがって、まともに、両者が自己の格式(ともに天子)を主張すれば、大唐の使者と倭王と、相対するときの座の取り方一つで、衝突することであろう。そしてそれは原理上、和する可能性はない。

 なぜなら、たとえば魏使と卑弥呼の対面の場合、必ず、魏帝の代理人たる魏使が上座、卑弥呼が下座であったことと思われる。
 この点、大唐の使者(高表仁)もまた、それを要求し、倭国側は対等(天子同士)を要求するとすれば、高表仁が倭王に会う前に(前段階に王子と会ったさい)、すでに位取りをめぐる紛争が生じることは自明だ。高表仁は、四角四面に大唐の立場を主張し、倭国の王子側の大義名分論とおりあうことができなかったのではあるまいか。

 この点、舒明の方は逆だ。「天子→天皇」だ。これは前者が優位、後者が劣位なのである。推古時代、「皇帝→天皇」であって、しかも朝貢の語が使われていた。推古側も、これを容認して返報している。おそらく舒明時代も、これと同じ態度だったであろう。高表仁はここに、和すべき相手を見出したはずである。

 要するに、近畿天皇家の使者は、九州王朝の使者の配下(地方の雄者、分流)として、同時に、あるいは前後して、大唐と交流した。しかし、両者の姿勢は、大唐側から見て、決定的にちがっていた。一方は、戦うべき相手、他方は和すべき相手だったのである。
 大唐側は、ただ漠然と決戦に突入したのではない。相手の内側を見定め、戦中と戦後への手を打っていた。少なくとも、手を定めていたのではあるまいか。
 裴世清・高表仁と、相次ぐ近畿天皇家との交流は、そのための下見、あるいは根まわしだったのではあるまいか。

 なお、右のように考えると、一つの不審が生ずるかもしれぬ。〝大唐と近畿天皇家との交流が『旧唐書』には現われていないことになるではないか″と。
 しかし、実はこの点は不審でも何でもない。なぜなら中国としては、「夷蛮」の各国主のみならず、配下の各豪族とも、幾多交流の歴史をもつ。たとえば、匈奴の単于との交流のみならず、各配下の単于とも直接交流が存した。けれども、その一つ一つがすべて匈奴伝に書かれるわけではない。むしろ、代表の単于との国交のみを記し、他は省略する。その方が原則なのである。

 さて、倭国の場合。七世紀代では、中国側が日本列島代表の王者と見なしていたのは、九州王朝、すなわち倭国の王者だった。「東西五月行、南北三月行」といった表現が、それを物語っている。
 したがって他(近畿天皇家以外にも、吉備や毛野や出雲など)の権力者も、それぞれ中国との交流を求めたであろう。中国も、礼(上下関係)さえ守れば、こばむところではなかった。しかし、それらは正史に必ずしも記載さるべきものではないのである。



 上記文中、「一方は、戦うべき相手、他方は和すべき相手だったのである。大唐側は、ただ漠然と決戦に突入したのではない。相手の内側を見定め、戦中と戦後への手を打っていた。」とあるが、ここで言う決戦とはいわゆる「白村江の戦い」である。この戦いを戦ったのは九州王朝であり、九州王朝は徹底的な敗北を喫した。九州王朝がその覇権をヤマト王権に奪われることになる直接の原因である。
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