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244 むかしむかし、こんなことを考えていた。(4)
なぜ教師か(1)
2005年4月16日(土)


なぜ教師か

ぼくは自分の醜悪な顔にふと気づいて、深い自己嫌悪に陥り滅入ってしまうことが度々ある。
 教師は教師ヅラをしているとき最も醜悪である。その醜悪さは自らの教師ヅラに無自覚である ことによる。
 無自覚な教師ヅラを一皮むくと、どんな人間ヅラが現れるだろうか。おそらくその無自覚さに 相応の貧相な人間ヅラが現れるだけだろう。
 教師にとって本質的な問題は自分自身である。


 教師は聖職者である、いや労働者だ、いや専門職というべきだ、いやいや労働者であるとともに 聖職者でもある、などなどどうでもよい論議が政治状況の結節点で繰り返し繰り返し現れ、あたか もそれが本質的問題であるかのように流通していく素地は、僕らの無自覚な教師ヅラがつくってい る。なんとも教師をばかにした論議だが、現在教師はこのくらいバカにされるにふさわしい。
 右からであろうと左からであろうと、あらゆる政治党派のご託宣はいらない。僕らの唯一の本質 的課題は、不可避的に強いられるものであろうと、自ら好んで身につけたものであろうと、自らの 教師ヅラを対象化し(自己省察)、実践においても理論においてもそれを止揚して人間ヅラを豊か にし(自己教育)、教育現場を人間ヅラを押し通せる場にしていく(自己決定)ことである。

 自己省察力、自己教育能力、自己決定能力。教育の目的はこれら三つの力を生徒が自らのものに していくことにつきると、ぼくは考える。現在、教育の不幸は誰よりも僕ら教師自身がそれらの能 力に乏しく、教師ヅラが教師の血肉化していくところにある。

 教師ヅラが血肉化した教師はやがて、定められた労働時間以上の仕事はごめんだとか、この低賃 金では割りにあわないとか、休暇を全部消化しなければ損だとかの理念皆無の現実論や、教師は労 働者であるとか、専門職であるとか、聖職者であるとかのイデオロギー至上のタテマエ論やの、と もに自己疎外を増幅するばかりの次元に低迷して生きて臆面もない。


教師ヅラとは<教える者ー教えられる者>という構図の中になんの疑いも持たすに安住している おめでたくも安直な精神のことである。この精神の中では俗説が得意然とまかり通る。

<教える者ー教えられる者>という構図を突出したところに生き生きとした人間ヅラが現れるだ ろう。自らの中に巣くう俗説を検討することが人間ヅラを豊かにする第一歩である。少しでもうさ んくさい俗説をひっくり返してみることが、どうやら<考える>ということの秘訣のようだ。

 日常の生活実感を逆なでするような俗説や、何らかの圧力をともなう俗説はいかがわしいと思って まず間違いない。
 例えば、「勉強とは本来苦痛をともなうものであり、生徒は勉強を好まない。どうしてもアメとム チが必要である。」「なんてできないヤツラだろう。もともと能力がないんだ。」という類の俗説を ひっくり返して考えてみる。
 「勉強とは本来楽しいものであり、生徒は勉強が好きである。なのに彼らが意欲をみせないし、効 果も上がらないのはどうしたことだろう。オレの授業がダメなんだ。点数をつけない、進級や卒業に も無関係という場合でも、生徒がのってくる楽しくよく分かる授業をやる力量が今のオレにはない。」 どうやらこの方が真実である。


俗説は<決まり文句>となって日常化し、僕らを内部からむしばむ。教師の使う決まり文句は教師 ズラを写す鏡である。

 どこの学校の教育目標にも、教育の目的は国家社会のために役に立つ有能な人材を育成することに あるというような一節が、必ずといってよいほどかかげられている。ぼくにとってはこれは日常の生 活実感を逆なでする俗説である。しかも相当の圧力をともなっている。
 このような教育の目的になんの疑念も持たない人は勿論のこと、そうでない人も「国家」をとって 「社会のため」とか「全体のため」といったあいまいな、決まり文句をよく使う。使わないまでもそ の決まり文句には弱い。これらの決まり文句に写っている顔は一見人間ヅラのようであるが、ぼくに は醜悪な教師ヅラに見える。

 決まり文句の多くは、ホンネというアンコをタテマエという厚い皮で包んだ安物のマンジュウみた いなもので、ダメである。考えるとは言葉で考えることだから、決まり文句の使用は思考の停止であ る。教師のやる教育論議や会議の多くが不毛でつまらないのは、それが決まり文句を軸にして展開す ることによる。皮の部分をなでまわして、マンジュウの品定めに始終しがちとなる。アンコの部分の 毒性や人畜無害性(どうでもよいということ)に気づかぬまま、マンジュウを食いつづける結果が人 間ズラの矮小化あるいは崩壊である。

先の<決まり文句>=<社会のため><全体のため>について念のため書き添えると、そうした観 点が全く無用であると主張するつもりは勿論ない。ただその決まり文句を安直に受け入れることによ って起こる価値基準の転倒を問題にしたいのだ。教育は<数>の問題ではなく、すぐれて<個>の問 題だと、ぼくは考える。
 さらにその決まり文句を安直に受け入れてしまう精神構造のことも念頭においている。この問題は、 深く追い詰めれば、ぼくらが日常の生活過程において身につけてしまった、あるいは身につけさせられて しまった健康な秩序感覚・内なる国家意識の問題になるだろう。<内なる国家意識>については稿を 改めて考えたい。


あまりに見え透いた決まり文句が臆面もなくまかり通る場では、ぼくは絶句してしまう。決まり文句 常用者への反論は無駄だなあという徒労感のため苦しい沈黙を強いられる。その徒労感を克服し得て も、えぐり出すべきアンコの毒性が強ければ強いほど、反論の結果起こると予想される「場」の変容 あるいは破壊の大きさにみずから恐れてしまって、やっと口にできるのは言うべきことの三分の一ぐ らいだろうか。僕らは言葉にしたより以上の沈黙を抱えこみながら生きる。

 僕が真実を口にするとほとんど
  全世界を凍らせるだろうという
  妄想によって僕は廃人であるそ
  うだ(吉本隆明「廃人の歌」)

 タテマエが他者に与える負荷の大きさに思いいたると、決まり文句の使用は一種の言葉の暴力で ある。ホンネは他人に言わせるべきではなく、本人が言うべきである。


「社会のため」とか[全体のため」とかの決まり文句を、ぼくはとうに願い下げにしてきたが、 「生徒のため」という決まり文句にはかなり執着していた。ただし、この決まり文句を口にする とき、抽象的な生徒一般ではなく、該当の個々の生徒の顔が浮かび上がってくる限りにおいてである。


 「生徒のため」という決まり文句は黄門様の印篭ほどもの威力を持つようだ。考えの相反するもの 同士が「生徒のため」を掲げて譲らず、議論は「生徒のため」をめぐって空転し、生徒のためには不 毛に終わる。よくあることだ。

 あるとき、互いに譲らない一人がぼくであった。相手のM教頭は、ぼくの「生徒のため」に対して、 『「生徒のため」をかくれみのにしている』と口走った。「生徒のため」はタテマエで、本当は手を 抜いて楽をしようとしているとか、生徒に迎合してものわかりいい教師ぶりたがっているとか、おそ らくそんな意味のことを言いたかったのだろう。こういうくだらぬ言いがかりは黙殺するだけだが、 このときそうした相手の思惑をはるかに超えたところで、僕は自分の醜悪な教師ヅラをみた。「生徒 のため」という決まり文句に付着している本質的な欺瞞を明瞭に悟った。
 誤解を恐れずに言えば、僕らの教育の営みは「生徒のため」である前に「自分のため」のものである。  「自分のため」とはどういうことか。
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