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242 むかしむかし、こんなことを考えていた。(2)
夜間中学(2)
2005年4月14日(木)


二、なぜ夜間中学か
     時はなにがしかの魔力で人間からその思想をひきはがし
     固定する。その時はじめて人は一瞬の己が影に責任をも
     たねばならなくなる。誰に向つて?
                 (谷川 雁「原点が存在する」)

 「特殊学級に、息子をむかえに行く。息子たちに、一般の子供た ちとの交流カリキュラムはないが、それでも、息子たちと同じ小学 校の児童たちはかれらに優しい。通学途中の私鉄経営の学園にかよ う幼いエリートたちのみが、バスでいやがらせをすることがあった。 ウツルゾ、と騒ぐ。障害によって足弱な子供に、なお足ばらいをか けたりもした。」 (大江健三郎「日記から」)

 この障害のある子供への幼いエリ一トたちの仕打ちは、子供の単 なる悪ふざけではないし、特殊な事例でもない。ぼくは、社会全体 を律するほどにあまねくはびこっている「教育の荒廃」の原型を見 せられたように思う。

 今日教育問題の要は高校であると言われている。高校への進学率 が約97%(東京都)と、ほとんど全入である今日、幼稚園以来 の選別、分断の積重ねによって傷つき発達を疎外されつくした子供 たちが選別、分断の完成の場として振り分けられてくるのが高校で ある。高校が、国立、私立有名校-公立有名校-それ以外の公立普 通科校-私立普通科校-公立職業科校(専門科目によってさらに細 分される)-その他の私立校、というようにはっきりと序列つけら れていることは周知のことである。この選別、分断によって「荒廃」 させられているのは「できない子」だけではない。あらゆるランク の生徒が「荒廃」にさらされている。

 「私は、高校生活を、こう送ろうと思う。まず受験の科目以外は、 テストの時以外、絶対に勉強しない。クラブも、生徒会も参加しな い。H・Rの時は、絶対発言しない。指名されても『どうでもいい』 という。………どうでもいいから、三年間を無事に送って、希望の 大学へ行けたらそれでいい。(都立目黒高校生)」(白鳥元雄「十代との対話」)

 この他者や集団への無関心・無責任・無気力は次のような恐ろし いエゴイズムと五十歩百歩である。

 「…‥ぼく個人のもつ教育の理想ですが、それは、ぼく以外の人 間が、ぼくより劣った環境で、ぼくより能力が高くならないように 教育されること、つまりぼくだけが甘い汁を吸えることが理想です。 (日比谷高校生)」(村田栄一「闇への越境」)

 これが「足弱な子供に、なお足ばらいをかける」幼ないエリート の成長した姿である。こうした例は枚挙にいとまない。決して例外 ではないのだ。高校入試制度(小尾構想)に対する高校生の反応を まとめた記事で、「日比谷高校新聞」 (1966年9月1日付)は 次のように結論しているという。

 「そこで提案する。普通科高校を減らせと。普通科が減ったぶん だけ、職業高校や専門高校をつくる。大学へ行っても意味のない人 はそちらへまわすだけだ。」

 これがエリート高校生たちの平均的感性である。中教審答申が出 されたのは1966年10月31日であるから、「日比谷高校新聞」 はそれより二ヵ月も前に、「荒廃」の根をさらに強化する「後期中 等教育の多様化プラン」を先取りしているわけである。やがてこの ようなエリートたちが高級官吏、企業の首脳、政治の中枢をしめる。 そして今の自民党政府、財界と同様に彼等も自分自身の「荒廃」を 認める能力を持たないだろう。国家権力の保身のための「期待され る人間像」のような徳目主義的、前近化的な道徳の注入がその教育 対策となろう。相変らず人民を支配ないしは管理・操作の対象とし てしか見られない。先に引用した文章の続きで、大江健三郎氏も指 摘している。
 「かれらには、身ぢかで特殊児童たちを理解する機会がない。か れらには特殊児童への思いやり、すなわち弱い他人の立場になって ものを考える想像力が育つことはむづかしい。受験競争をこえてか れらが入って行く社会が、またおよそそのような想像力に欠けた者 たちのリ一ドする社会である。」

 教育が社会機能の一つである以上当然のことであるが、教育はそ の時代の社会体制、社会構造のくびきから自由ではあり得ない。教 育の問題とまともに向き合うとき、ぼくらは政治や社会体制の問題 からも目をそらすわけにはいかなくなる。

原点


 現在のこの国の教育体制はその社会体制と見事なほどパラレルで ある。粗雑にすぎることを承知でその構造を図式化すると、右の図 のようになる。
 円柱は時代の情況が強いる本質的問題で、それは最下層から最上 層までまっすぐ縦に貫いている。切り抜かれた円錐体は各層におけ る特権性であり、上層にいくほどその特権性によって本質的問題が 相殺され、問題の本質(各断面の斜線部分)は隠されている。例え ば、最近「自由」とか「福祉」とかが自民党のキャンペーンになっ ているが、「自由」とか「福祉」とかは円錐部分であり、それは底 辺にはとどかない。教師たちはBあたりであろうか。教師たちの多 くは「自由」のおこぼれにあずかって、現状に埋没する。
 逆に「石油危機」のようなものは円柱であり、もろにいためつけ られるのは最下層である。上の方はいたくもかゆくもない。儲ける 奴は普段より以上に儲けている。「石油危機」が作られた「危機」 と言われるゆえんである。現体制を擁護しながらの「自由」とか「 福祉」とかはまやかしである。

 時代の情況が強いる本質的問題を、もっとも広い意味での「疎外」 と言いかえてみる。先の図は「疎外」と「特権性」との相関関係を 示すことになる。

 「疎外は、私の生活手段が他人のものであるということにも、私 の欲求するものが私の手に入らない他人の占有物であるということ にも、またあらゆる事物そのものがそれ自体とは別のものであると いうことにも、また私の活動が他人のものであるということにも、 最後に ―そしてこれは資本家にもあてはまることだが― 一般に 非人間的な力が支配しているということにも現れる。」(マルクス 「経済学・哲学草稿」)

 右の引用文で「生活手段」を「教育手段」と、「資本家」を「教師」 あるいは「エリート」といいかえて読むと、教育問題についてもす べてが言いつくされていると思える。
 先の図においてAが国立・有名私立高校あるいは東大である。問 題の本質が最も鮮明に見えるあらゆる疎外の集中する極・C。それ をぼくは原点と呼ぶ。現教育体制で原点Cは夜間中学であろうか。自 らの立つ場を掘り下げれば問題の所在にいきあたるはずであるが、 夜間中学の実態を見ることによって問題の本質をより鮮明にしてみ たい。
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