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240 教師の戦争責任(10)
墨塗りをした教師たち再論・二つのタイプ
2005年4月12日(火)


 「第235回」(4月7日)で次のように書きました。『「墨を塗った教師」のその後の生き方は三つの タイプに分類できそうです。「A先生」と「おっかない校長」の二つのタイプと、今回はその三つ目 です。』その三つ目のタイプの代表は「過ちを犯した教育者に時効はない」を書いた百武福寿さんで した。
 長浜さんの分類に当てはめると「A先生」は第一のタイプで「おっかない校長」は第二のタイプに 当たります。この二つのタイプについての長浜さんの論述を読みます。
タイプ1:「辞めるべきだが残る」型=出直し型
 やめるべきであるが残る ― という論理はその前提として、戦争責任の自覚 がある、ということである。それを踏まえたうえで「民主教育」をやっていこうという、いわば出直 しの思想をそこにみることができる。しかし、荻野未・金沢嘉一などのように、その出直しの思想は 教育基本法や新教育指針といったものに拠る出直しであって、己れの思想から出発したものではない。 教育界においては、たとえば荒正人が戦後間もなく叫んだような「戦後の世代は、正直のところ他か ら(それがどんな権威であるにせよ)教えられることに飽いているのだ。また、だまされたくはないぞ、 という心理なのだ」(「二十代の不信」『中央公論』昭和22年12月号)といった徹底さはみられない。
 東井義雄が十幾年の沈黙を破って教育界に名乗りをあげたとき、友人の国分一太郎が東井のその著 『村を育てる学力』に序文を寄せ、つぎのように述べた。「そこで東井さん。私もあなたも弱かった のだ。弱いものはあやまりやすいのだ。しかし、あやまりだったと知ったとき、教師たるものが悔い 改める道はどこにあろう。いま目の前にいる子どもに正しく新しく奉仕する以外に、ほかの道はない のではないか」。
 この論理はこの型をすべて包摂しているが、問題は「正しく」奉仕する基準をどうつくっていくか、 ということであって、「目の前にいる子ども」に奉仕することを先行させている国分一太郎の認識で ある。「弱いものはあやまりやすい」といういい方も問題とすべきであろう。教師を弱いものの側に 位置づけたなら、こどもはどういう場に位置づけるのだろう。戦時下、教師たちはまったく無抵抗の こどもに鉄拳と制裁の嵐を加えたのである。そういう立場を「弱いもの」と規定する論理はまさに傲慢 不遜であり、そういう認識にしか立てない人間が、どうして「正しい」方法を身につけることがで きよう。この出直しの型は表面的にはわかりやすく、きこえはいいが、その内実は右のようなもの だったのである。

 このタイプの教師について問題点が二つ指摘されています。
 一つは教育の内容や方法を「己れの思想から」考えるのではなく「教育基本法や新教育指針とい ったものに拠る」ことです。これは「民主主義」を接ぎ木しただけなのでその「民主主義」が他の 何かに容易に変わってしまう危うさを引きずっています。「君が代・日も丸の強制」に屈服した ある学校の教頭が「私は今まで間違っていた。」と言い、卒業式で大声で君が代を歌った という話を確か『良心的「日の丸・君が代」拒否』で読みました。
 二つ目は教育を営む根拠を「いま目の前にいる子ども」だけに限定してしまう危うさです。 この考え方は批判的に「二十坪の論理」と言われています。かなり以前から論じられていることがらで、 私も30年以上も前にこの問題について文章を書いたことを思い出しました。探し出して読み返してみま した。少し気負いすぎが鼻につきますが、基本的なところでは考えは変わっていません。(要するに 進歩していないということです。)これまで長浜さんの論考をたどるだけで私自身の考えをほとんど 述べていませんので、もう30年以上も前の文章ですが、加筆訂正をしないでそのまま次回から掲載す る予定です。

 タイプ2:「やめるべきではないから残る」型=居直り型
 この教師たちの最大の特徴は命令があればどんなことでもやる、ということである。さらにいえば 国や校長のいうことには絶対服従で、こどもに対しては絶対支配権をふりかざす、もっとも悪質なタ イプである。量的にいえば、この型がもっとも多かったのだから、考えてみればおそろしい話である。
 いまひとつこの型の特徴は記録に乏しい、ということである。沈黙を守り通しているのである。自 己批判をさけているのだから、あたりまえといえばあたりまえだが、たとえば鈴木源輔に至っては 『戦時国民教育の実践』(昭和17年)から『民主教育の実践』(昭和21年)の間には無気味な沈黙が 横たわっている。思想の決算と新たな形成には苦悩と葛藤が不可欠だが、このタイプはそれらを経験 しない。そういう無節操な人間がこどもに接するのである。こどもがどんなふうに育っていくかは 予想がつく。思想のない人間ほど、上から操られても走狗であることを自覚しないし、そういう人間 ほど、こどもに悪い影響を与えるものである。

 敗戦時にどう身を処したのかという特殊条件をはずして一般化しても、上の二つのタイプは 教員の類型として有効だと思います。私が教員だった頃と変わりがなければ、まことに残念なが ら、現在の教員構成もこの第二のタイプが多数派だと推測できます。はからずも「君が代・日の丸の 強制」がそのことを証明しています。特に管理職に限れば、もうほとんど全員といってよいでしょう。 今は管理職を目指すのはこういうタイプの教員だけだといったらよいでしょうか。あるいはこういう タイプの教員しか管理職試験に合格しないシステムになっているといったらよいでしょうか。
 「自己の内部の世界を現実とぶつけ、検討し、理論化してゆく過程」 とその逆過程をたゆみなく歩んでいる 第三のタイプの教員たち(「第42回・2004年9月25日」を参照してください。)に期待するほかありま せん。しかし、第三のタイプを加えてその構成比は3:6:1ぐらいでしょうか。私の教員体験だけを 根拠のあまり当てにならない勝手な推量ですが、一抹の寂しさを感じています。
 なんども繰り返し言ってきましたが、教育に限らず全ての面で「戦争責任」をあいまいにして敗戦 をやり過ごしてしまったツケがいま露呈してきたのです。
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この記事へのコメント
教育招魂社/教育の靖国
御存知かとも思いますが、教育招魂社/教育の靖国を日教組がお守りしていたんですね。

教育塔って知っていましたか?~日教組が「教育勅語」賛美? - 情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/199a8d5a7f2d62e945167c024d9f7080
2008/12/15(月) 16:57 | URL | ゴンベイ #eBcs6aYE[ 編集]
Re: 教育招魂社/教育の靖国
亡くなった教職員を、本人も家族の望んでいないのに教育塔に合祀しているんでね。この点も全く靖国と同じです。

> 御存知かとも思いますが、教育招魂社/教育の靖国を日教組がお守りしていたんですね。
>
> 教育塔って知っていましたか?~日教組が「教育勅語」賛美? - 情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)
> http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/199a8d5a7f2d62e945167c024d9f7080
2008/12/16(火) 17:12 | URL | たっちゃん #-[ 編集]
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