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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
236 教師の戦争責任(6)
教育学者と教師の身の処し方の違い
2005年4月8日(金)


 「墨塗りをした教師たち」の次は「墨塗りをしなかった教師たち」、つまり敗戦のときに教壇を 去った教師たちに焦点をあててみたいのですが、その前に教育学者のことに触れておきます。

 長浜功さんの著書「教育の戦争責任」は教育学者の戦争責任の取り方、というより取らなさ方 を個人名を挙げて、一人一人について克明に追求しています。それぞれ著名な教育学者です。 いずれ詳しく紹介する予定です。
 「日本ファシズム教師論」はその続編で「第四章 教育における戦争協力の論理と倫理」では教師の 戦争責任の取り方あるいは取らなさ方を、ここでも個人名を明らかにして論じています。その人たちは これまでの人たちとは違い、それぞれ自らの著作物をもつ当時のオピニオンリーダー的役割を果たして いた人たちです。(「日本ファシズム教師論」の論述には部分的に多少異論があるのですが、この稿では それはおきます。)

 私は上の文で教育学者の場合は「戦争責任の取り方、というより取らなさ方」と言い、教師の場合は 「戦争責任の取り方あるいは取らなさ方」と微妙に違った言い方をしました。教育学者の中には戦争責任 とまともに対峙したものが皆無だったと言うことです。このことに関して上提の 「第四章」のはしがきを読んでみます。

 長浜さんは「教育の戦争責任」で「国民学校の教師たちが悶々と、戦争責任者としての自分 の立場に悩みをかかえているとき、教育学者たちは平然と教壇に返り咲いていった。」と書いています。 「第四章」で教師の戦争責任を論述するに当たり「このことを避けて論述することはできない。どうして も触れていかなくてはなるまい」とし、本論に入る前に、この教育学者と教師の身の処し方の違いを、 悩み方の違い、研究室と教室という場の違い、返り咲き方の違い、の3点で論じています。
このはしがきを私は、現在「君が代・日の丸」の強制で踏み絵を強いられている教師たちと この事について口をつぐんでいる学者たちをオーバーラップして読みました。要約して紹介します。
 第一の悩み方のちがいについて、結論からいえば質的にも量(人数)的にも、教育学者と比べて、 教師たちのほうが深く傷つき、深刻に悩んだ、と いっていい。戦争賛美の論文をものした教育学者がほとんど戦後またぞろ教育界に、なんの自己 批判もなしに復帰して〝大活躍″したのに比べ、教師たちのなかには自らの戦争協力を痛烈に反省 し、責任をとって野におりた人間がかなりいる。むろん、量的にいえば居残りが圧倒的に多かった けれども、教育学者の百%の復帰からみれば、明らかに教師の反応は良心的だったということがで きる。(後略)

 第二の研究室と教室のちがいについていえば、(中略)教師は受け持っているこどもの生命を 預っている。こどもが喧嘩で怪我でも しようものなら、教師は名指しで非難される。学校での事故も同様だ。ところが研究室の論文は責任 の形が具体的ではない。侵略戦争を聖戦といっても、教師が親から責められるような形で批判されな い。とりわけわが国ではそうだ。杉靖三郎のように、空腹はかえって頭をよくするなどとのたまわっ ても、責任を追及されない。そうした責任追及の差が両者の差異である。本当なら、これは逆になら なければならないのだ。研究室で無責任なことを言ったり書いたりしたやつがなんの批判も受けず、 彼らの参画した教科書を使って教えた教師が非難を浴びるのは、どう考えても順序が逆だと、わたし は思う。

 第三の返り咲きのちがいについてであるが、これもまた実に対比的である。学者たちは時流にあわ せて、戦後民主主義の潮流に乗り移ったけれども、教師たちはそうはゆかなかった。学者は自分の書 いた本を庭で焼き捨てればよかったが、教師たちは昨日まで神聖無比と教えてきた教科書に墨をぬら せなければならなかった。教師たちには己れの良心に目をとざしていても、それを責めるこどもの目 があった。しかるに教育学者たちときたら、己れの良心を押し殺しておけば、誰も責めるものはいな かったのである。かくして学者は平然と復帰をし、良心的な教師であればあるだけ、教壇から身を遠 ざける結果を招いた。(後略)

 以上、みてきたような点からいってもなお、わたしは教師の戦争責任の所在を掘り下げてゆく必要 性を痛感する。学者と比べればその比重は、はるかに軽いといえるかもしれないが、しかし教師とい うものが、人間の生命を預かる固有の仕事である限り、歴史のなかで果たすべきこと、為すべきこと およびそれとはまったく反対の極としての犯罪と誤謬について学ぶことは重要である。その意味から いって、戦争中に果たした教師の仕事についての反省は、単純に割り切ることのできる問題ではない としても、先ず、この問題に取り組むということから、始まるのだと思う。

 次回は「墨塗りをしなかった教師たち」を取り上げてみます。
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