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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
234 教師の戦争責任(4)
墨塗り教師
2005年4月6日(水)


 「日本ファシズム教師論」からの孫引きです。
 そのころは、まったく軍国主義教育であり、すばやく軍国の子に育てる目的のために、教師は幼い わたしたちを気が遠くなるほどよく殴った。教科書をたいせつにしない子にはとくにそうであった。
 それが戦争が終ったら「教科書を開くまえに一度教科書におじぎをしないと罰が当たるよ」とまで 教えてくれた同じ教師の命令で、わたしたちは教科書に墨をぬったのである。
 村に軍人はいない。軍人と教師のどちらが偉いのかはわからなかったが、とにかく軍人のいない村 に、教師以上の偉い人はいない。教師のいうことは、子どもにとってはもちろん、親にとっても絶対 であった。
 それゆえにこそ、教師に説得されると、数え年十五のわが子を軍隊や満州に送り出していたので ある。その教師が、こともあろうに教科書のなかでも特別に力をいれて教えた部分こそよけいに濃く 墨をぬらせたのである。
 教科書に墨をぬる ― ということは、それまでの教育をまっこうから否定することではないのか。 それまでの教育を否定するのであれば、それまでとは異った意識で以後の教育にあたらねばならないの ではなかったか。
 このことを、生徒も教師も忘れていいのか、忘れさることが許されるのか。そのときから四半世紀も 過ぎ去ったからといって忘れていいのか。ほんとうは、忘れることは罪ではないのか… (和田多七郎『ばくら墨ぬり少国民』太平出版社、昭和49年7月)。

 教師たちはGHQの命令に従って生徒たちの教科書に墨を塗らせました。ともかく命令には従ふ人たちです。 そのとき大方の教員たちは同時に自分の心にも墨を塗ったのです。軍国主義教育にどっぷりと浸かった自分の 思想・精神を厳しく検証して棄揚するのではなく、民主主義教育と言う墨を塗りこっそりと隠して敗戦をす り抜けていったのです。
 わたしが教師になりたての頃だから、確か昭和30年前後のことである。ある研究会で、授業を見 ようと階段を駈け登ったとき、二階から降りて来たA先生と、正面からばったりと出会った。十年ぶり で出会った恩師を見上げ、わたしは体じゅうの血が、逆流する程の憎悪を覚えた。先生は、しばらく わたしを見おろしていたが、高慢な勝利者の顔で、うす笑いを浮かべたまま、階段を降りて行かれた。
 その研究会の最後は、A先生の「民主主義教育の何とか」という、いかにもアメリカやヨーロッパだけ が教育の先進国のような、反吐の出そうな講演であった。この、時代の寵児に対して、わたしは唇を嚼ん だものであった。
 その十年前。わたしが小学校五年生だつたから、昭和19年のことである。
 担任のA先生に召集令状が来た。先生には、二度目の応召だった。襟の詰った黒い軍服を着、金色の ゴボウ剣を腰につけた、りりしい姿で、全校生徒の前に立たれた。「自分もきょうからまた、日本海 軍軍人であります。この非常時に、天皇陛下に召されて出征できることは、日本男児として本望であ ります。」
 先生のことばに、わたしたちは酔っていた。これ程の、興奮はなかった。
 教室へ来られた先生は、まず黒板の上に飾られた皇居の写真に向って、
 「まもなく、自分は天皇陛下のおそばへ参ります。」
 と、挙手の礼をされた。目深にかむった軍帽、白い手袋は、戦時下における「われら少国民」の、 もっとも憧れる海軍将校の雄姿であった。みんなも敬けんな気持ちで、写真に向って最敬礼をした。
 「いいか、みんな」その日、先生の顔には、いつもの笑顔はなかった。「自分はかならず死んで来る。 鬼畜米英を倒さん限り、生きては還らんぞ。」
 溢れる気持ちを鎮めようとしたのか、先生はー息つき、さらに「おまえたちも日本男児だ。かならず 後に続け。自分の教え子として天地に恥じない人間となり、皇国(みくに) のためにご奉公してくれ、今生の別れだ」と、疎開学童のため八十余名にふくれあがった教え子のひ とりびとりと握手をされた。
 わたしの番になったとき、思わず体が震えた。両手で先生の手を握って、
 「先生、死、ぬな。」
 泣き声になったとき、目の前に火花が散った。こめかみあたりを殴られ、倒れた。「女々しい事。……それ でもおまえは日本男児か、海軍軍人の教え子か。」
 その日、A先生は八紘一宇、滅私奉公ののぼりの中を、勇壮なブラスバンドに送られ(いずみ) ってしまった。
 そして終戦のよく年三月、先生は復員された。その時がまた、お別れのことばだった。
 「先生していても、まんまが喰えねえすけえ、のう。先生やめて、百姓になっさ。」
 方言まる出しで、完全な三枚目の挨拶であった。百姓でなければ、食料のない時代であった。
 六年生であったわたしは、割りきれなかった。折り目正しかった軍人の、この豹変ぶりに、軍国教 育を受けていた当時のわたしは、失望した。こういう場合、おとなという者は、日本男児と百姓の 距離を、子どもに説明してはくれないものなのだ。
 時代が落ち着くと、また復職された。そしてあの民主主義教育云々の、先生一流の論法が、時代を 先行しているという錯覚を他人にもたせ、栄達の道を進まれた。
 今でもわたしは年毎に、あの殴られ方を鮮かに思い出すのである。  (本間芳男「軍国教師の戦後転向」『昭和教育史の証言』山脈出版の会、 昭和51年8月)
 このA先生は墨で塗り隠した思想・精神と新たに与えられた民主主義とを自らの内部でどうように 闘わせたのでしょうか。そのおおよそのことは偶然出会った教え子に対する対応から推察できます。 「厳しく検証して棄揚」してきたとはとても思えません。墨の下はそのままで民主主義者に成りす まして出世してきたようです。
 次は国民学校(現・東京都府中市立府中第一小学校)で「おっかない」校長と生徒に畏怖されていた 吉田亮という人の手記(遺稿と書簡)の一部です。(「御民ワレ」から)
(前略)昭和十七年、国の施策として満蒙開拓青少年義勇軍の計画があり、全国から募集した。
 府中小学校からも九名応募参加した。卒業直前の三月内原訓練所に入所、約一年の訓練の後渡満し昌 図に入った。
 思えば十五歳、青雲の志を抱いて満蒙に骨を埋める決意、その意気懦夫を起たしめるものがあった。
 昭和十八年七月、東京府の慰問団(七名の校長)の一人に加わった私は、彼等の入植地昌図を訪ねて、 二日二晩生活を共にしたが、熾んな意気で艱苦欠乏を内原精神で堪えている姿に安堵したものだ。
 この旅行の日程は、朝鮮・旅順・奉天・ハルピン・孫呉・黒龍江・牡丹江などの慰問、見学で、 一か月で得ることも多大であった。



 小生も老来益々健康にめぐまれ、ヒョンな事から昨夏来、市の教育委員になり、殊に教育長たる 地位から、勤評の実施、これが反対闘争の組合行動に立ち向い、もって生まれた性格と信念で、 フン張り続けています。余事はさておき兄に満腔の敬意と謝意を表したいことがあります。というの は、昨日ゆくりなくも大国魂境内で、忠魂永存の碑を拝見したからです。
 裏面にまわりまして七百余名の方々のみ名を見て行く時胸がつまり目がしらがあつくなりました。  かうしたものは決して小生だけではなく、あまたの人がそうだろうと思います。それが「忠魂永存」 です。小生、二年ほど前、保谷天神で、やはり忠魂碑を見ましたが、その時もいゝ事がしてあるなと 思ったのですが、府中に於ては、一段も二段もそう思わせられました。
 小生も三〇年退職後直ちに、かつての任地拝島、深大寺、府中の、教え子を葬った寺二十数ヶ所の 墓参をし、線香を供え乍ら泣いて来ました。
退職したらと心に誓っていたので三〇年になりますと、度々夢を見ていたので、墓参後は重荷をおろした ような感がしています。(以下略)

 この人は自らの思想・精神をごまかしたのは墨を塗った一時だけで、塗った墨はいち早く拭い去って 旧態然の思想・精神のまま国家権力の忠犬として「フン張り続けて」いったようです。
 もちろん、墓前で流した涙は教え子を死地に追いやったことへの悔恨の涙ではなく、児童たちに押し付 けた忠魂への自己陶酔の涙です。外国の地で侵略者として死んでいった、いや祖国から見捨てられ殺され ていった人たちの無念さを感受する感性を欠き、その人たちの慟哭を聞く耳ももたず、自分が生き残った ことへの後ろめたさもこれっぽっちも感じない貧相な精神を得意がる忠犬です。
 今ほとんどの自治体では教育長とか教育委員とかは、この手合いの国家主義亡者で占められているのではないで しょうか。権力の犬として「フン張り続けて」いるのは都教委だけではありません。改めて恐ろしいこと と思わざるを得ません。
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