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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
232 教師の戦争責任(2)
近代日本のスタート時からの病根
2005年4月4日(月)


「日本ファシズム教師論」から、まずかっての少国民の証言を読んでみます。

  小学校の思い出
   ―おりあらば、俺たちの
     前でS先生に読まし
     てやりたい詩

いまごろは
あいつはどこでなにをしている
 だろう
あいつは俺たちを四年間うけ
 もった
しかし 俺たちは
あいつに教わったことをおぼえ
 ていない
俺たちの組には
友だちどおしのなかに先生代理
 というのがいた
君らがちゃんとしらべてきて
時間ごとにかわって教壇にたった
あいつはいつもすわっていた
あいつは自分勝手なことをして
 いた
そしてあいつは
時間中でも俺たちに肩をたたか
 した
順番をきめてたたかした
その順番で
あいつは自転車も掃除さした
靴みがきもさした
すすんでやったものは点数をも
 らった
それであいつはいつもすわって
 いた
ちょっとアゴをしゃくれば
俺たちはとびまわった
俺たちは点数がほしかったのか
俺たちはあいつになぐられるのが
 おそろしかったのだ
あいつは俺たちをびしびしぶんな
 ぐった
あいつの気がすむまでぶんなぐら
 れた
みがいた靴のそろえ方がわるいと
 いう理由で
着物がよごれているという理由で
顔の感じがわるいという理由で
試験の点数が三点たりなかったと
 いう理由で
あいつは俺たちを
床板にたたきつけるほどなぐりつ
 けた
俺たちは 思い切りの悪い方法で
 あいつに反逆した
俺たちはあいつの太い腕がおそろ
 しくて
あれが勢一ぱいの反逆だったのだ
俺たちは失敗した
あいつは俺たちをコン棒でぶんな
 ぐった
俺たちのなん人かは
まっさおになってぶったおされた
俺たちのあるものは
頭のハダをたたきられて
まっさおな頬を紅の篠がつっぱ
 しった
あるものは立ったまま小便して
 しまった
俺たちはわすれやしない
一人としてわすれやしない
あいつ あいつ
あいつは陸軍伍長だった
あいつはいまごろ
どこでなにしているだろう
そしてあいつは
俺たちの幼い魂がきずつけられた
 かなしさと
そのために一そう強くはねかえった
 今のこの俺たちの勇気を
ちょっとでもかんがえることがある
 だろうか
   (こばやしつ
   ねお『こばやし・つねお詩集』
   解放社、昭和23年11月)

 明治政府は近代的な軍隊整備のための至上課題は兵士への一般的教養の付与であると認識していました。 徴兵令に先駆けて1872年(明治5)年8月に制定された「学制」は何よりも「強兵」作りのためだったので す。大日本帝国下の教育の暴虐な体質はそのスタートから決定づけられていたと言えます。(この 「学制」には激しい民衆の抵抗があったと言います。それが弾圧・鎮圧されていく経緯もいずれ調べたい と思っています。)
 その「学制」が敷かれたばかりの頃から教師をしていたという人が当時を回顧している文章が「御民 ワレ」に引用されています。その一部を孫引きします。
 併し当時の教師は、父兄からは神の様に尊ばれ、財産家などでは自分の家に居て貰うことを名誉の 様にしてよく世話をして呉れたので、今の様に生活は困難ではありませんでした。尚当時は実に自由 なもので、何時休みにしても旅行しても平気で、明日から盆であるから三日間休みだとか、何処の村 に芝居があるから休みだとか、校長の独断専行で何処からも指揮を受けるでもなく、認可を願うわけ でもなく、実に教師独尊時代とでも云う有様でした。
 児童の訓練などに就いてもその標準用語は「此の野郎、此のアマ」等の一言が万事の訓練語であっ て、実に簡単で十分に用が足りたのです。其の次は直ちに拳固・直立・留置等でした。直立には茶碗 に水を入れて持たせるか、又線香に火を灯ぼして消ゆるまで持たせるとか、又大算盤などを捧げ持た せる等で、罰の軽重に依って酌量すると云う有様でした。
 教師の持つ鞭なども、教鞭として用いられずして、黒板をたゝくとか机をたゝくとか児童を打つと かに用いられたものでした。そして其の鞭は児童に命じて、各児童の家の竹薮から、細くて節の密度 した根竹で、よくしなって打ってもたゝいても容易に折れぬものをさがして持参せしめるので、児童 は無邪気で何の気なしに先生様の気に入る様なものを選んで持参して呉れるのでした。 (『平塚小誌』1952年・平塚市)

 生徒を「此の野郎、此のアマ」と口汚くののしって殴ったり、「直立には茶碗に水を入れて持たせるか、又 線香に火を灯ぼして消ゆるまで持たせる」など陰湿にいびる事を「訓練」と言っています。「大東亜戦争」 下の国民学校では「皇国民の練成」と言っています。あきれたものです。
 「皇国民の練成」を理論づける教育学者たちの文章は後にまとめて読むつもりですが、ここでは当時 「東京第一師範附属校主事」という肩書きをもつ坂本一郎という教師の文章を掲載します。
 
 惟ふに、大東亜共栄圏の確立は、米英の非望を破砕して世界新秩序を建設したる後にはじめて可能 である。しかるに世界征覇を夢みる米英陣営はその財力と資源とに物言わせて、頑強に抗戦すること は必至である。高度国防国家体制はこの頑敵を殲滅するわが鉄壁の攻勢陣を意味するものであり、皇 軍は火弾を抱いてその第一線に奮進する。しかしわれわれは国民学校なる発射管に児童を装填して、 絶忠の火薬に火を点ずる第二線の重責に立つ。誰ぞ教育を不急の平和事業といふ。われわれの手許に 些かの緩みがあっても、それは直ちに操縦桿を振る神兵の精神に反映するものであることを思はねば ならない。(阪本一郎『少国民錬成の心理』はしがき)

 国民学校は発射管であり、児童は「絶忠の火薬」を以ってそこから戦場へ送り出す砲弾だと言うので すから驚きです。ちなみにこの坂本一郎という男は民主主義者ヅラして戦後も活躍したようです。 「児童文化功労賞」というのを受けているそうです。

 冒頭に引用した詩の中の教員Sは「陸軍伍長」とありますが、「大東亜戦争」当時の教員には 軍隊帰りが多かったようです。その頃の男性教師で徴兵検査甲種合格であったものの多くは、 兵役短期現役(5ヵ月)で下士官任官という特典により半歳を待たずに下士官になって学校に戻っています。 短期間で下士官に任官となるのですから、その教師たちが軍隊で受けてきた教育は相当に苛烈であったこと でしょう。そんな連中が「軍隊へ行ったら、こんなものじゃないぞー」と少国民を練成するのですからたまっ たものではありません。
 アッツ島の場合が昭和18年5月、サイパン島のそれが翌19年の7月だった。全校生徒を各自の座席に正 座着席せしめ、週番士官全員が手分けしてクラスごとにひとりひとりの頬を張って回るのだった。たるんだ空 気に活を入れ、奮起をうながすという触れ込みだった。
 「米軍の狂暴なる侵攻作戦のために、アッツ島守備のわが皇軍将兵は全員玉砕されたっ」
 週番士官が教壇に立ち、腰に両手をあてがって叫ぶように言う。
 「おんしらぁは、気がゆるんじょる。全員玉砕はそのためじゃっ。よって、皇国必勝のために週番士官が制 裁を加えるっ」
 今から考えれば三歳の童子にさえ判断がつく程度の非合理ぶりだが、当時の空気の中ではさほどおかしいと も思われぬ論理だったし、また、たとえおかしいと感じても異を立てるにはよほどの勇気を要したのだ。「動 くなっ ー 目を閉じよ。めがねを掛けちゅう者は、はずせ。ロをつぐんで、しっかり食いしばっちょれ」
 そうしないと、口内が切れて出血するのだった。注意事項が終わると、二名の週番士官が机の問をめぐりな がら叩き始める。平手で一人一回なのだが、態度のわるい生徒、ふだんからにらまれている生徒は、二回三回 とおまけがつくのだった(山川久三「反面教師としての軍国主義教育」広島平和教育研究所編『戦前の教育と 私』朝日新聞社、昭和48年11月)。

 「週番士官」というのは、教師が上級生のうちからお気に入りの「優等生」児童を任命した風紀の監視・ 取締まり係りです。実体は〝公的″な「ピンタ係」だったのです。  前にも書いたように、私は敗戦時には国民学校2年生でした。私の担任はまともな先生だったのでしょう か。殴られた記憶がありません。しかし戦後4・5年もたった中学生の時に一度ならず、クラス全員だったか一部だった か、廊下に並ばされて殴られた記憶があります。何が原因だか全く記憶がありません。きっと些細な事だった に違いありません。教育界には大日本帝国と新生民主日本との切れ目はなかったのかもしれません。いや、教育界 だけではなく、日本全体がそうだったのかもしれません。大日本帝国の亡霊が蘇える素地を残して しまっていたのです。
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