2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
588 唯物論哲学 対 観念論哲学(10)
もう一人の自分(5) 他者は「私」の鏡
2006年8月24日(木)


 自分以外の他者も自分と同じ人間として同じような一生をすごす。したがって、 他者は自分にとって鏡と同じ役割をしてくれる。

 ガラスの鏡は.現実の自分をある空間的な距離から、「もう一人の自分」に なって客観的にながめるための道具の役割をする。これに対して、他者は現実 の自分を過去や未来のある時間的な距離から、「もう一人の自分」になって客 観的にながめるための道具になる。

 人間の精神活動は胎児のときから始まっているといわれている。しかし、 胎児期から乳児期までの体験の記憶は、普通は残らない。おそらく無意識の 底にはその痕跡が残っているのだろう。

 自分が生まれたときの様子そのものを直接知るすべはないが、今生まれて きた赤ちゃんが身近にいれば、鏡に写っている自分の像を見るときの「もう 一人の自分」の時と同じように、その赤ちゃんを現実の自分として見ること ができる。そのときの「もう一人の自分」は当時の父親あるいは母親という ことになろう。

 お父さん・お母さん・お兄さん・お姉さんなどの現実の生活も、自分が同じ ような年ごろになったらどんな生活をするかを知るための道具となります。こ れも、未来の現実の自分の生活を、「もう一人の自分」になって客観的になが めることです。そのときに「こういう父親に自分もなりたい。」「ああいう母 親になるのはいやだ。」などと、「もう一人の自分」として感じたことが、つ ぎに現実の自分にひきつがれ、毎日の生活態度や心がまえに影響していきま す。

 夜中になにか大きな声でどなりながらヨツパライがフラフラとあるいている のを、父親が見て、「もし自分があんなみっともないことをしたら、子どもは どう思うだろう。」と考えたとしましょう。このとき父親はヨッパライを現実 の自分として考え、「もう一人の自分」は自分の子どもになって父親のすがた をながめているわけです。

自己分裂5

 ガラスの鏡を見て、そこに自分のすがたをながめ、みっともないと思ったと ころをなおすように、自分以外の人たちの現実の生活も一つの鏡として、そこ に自分のすがたをながめ、「もう一人の自分」としてみっともないと思うよう なことはしないよう努力することが、正しい生活態度です。これを昔の人は、 「ひとのふり見てわがふりなおせ。」といいました。

 私たちは「もう一人の自分」になることによって、自分以外の人たちに自分 のすがたを見るだけでなく、その「もう一人の自分」は自分以外の人たちにな ることができます。現実の自分がいやなことは、「もう一人の自分」にとって もいやなことで、自分以外の人たちもいやなことだろうと想像できます。これ を昔の人は、「わが身をつねってひとの痛さを知れ。」といいました。

 昔の人も経験から、「もう一人の自分」になって考えることの重要性を知っ ていたわけですね。


 チョッと横道に。
 生まれたときの記憶だあると言っている人がいる。三島由紀夫です。

 どう説き聞かされても、また、どう笑い去られても、私には自分の生れた 光景を見たという体験が信じられるばかりだった。おそらくはその場に居合 わせた人が私に話してきかせた記憶からか、私の勝手な空想からか、どちら かだった。が、私には一箇所だけありありと自分の目で見たとしか思われな いところがあった。産湯を使わされた盥(たらい)のふちのところである。 下したての爽やかな木肌の盥で、内がわから見ていると、ふちのところにほ んのりと光りがさしていた。そこのところだけ木肌がまばゆく、黄金(きん) でできているようにみえた。ゆらゆらとそこまで水の舌先が舐めるかとみえ て届かなかった。しかしそのふちの下のところの水は、反射のためか、それ ともそこへも光りがさし入っていたのか、なごやかに照り映えて、小さな光 る波同士がたえず鉢合せをしているようにみえた。

 ――この記憶にとって、いちばん有力だと思われた反駁は、私の生れたの が昼間ではないということだった。午後九時に私は生れたのであった。射し てくる日光のあろう筈はなかった。では電燈の光りだったのか、そうからか われても、私はいかに夜中だろうとその盥の一箇所にだけは日光が射してい なかったでもあるまいと考える背理のうちへ、さしたる難儀もなく歩み入る ことができた。そして盥のゆらめく光りの縁は、何度となく、たしかに私の 見た私自身の産湯の時のものとして、記憶のなかに揺曳(ようえい)した。 (「仮面の告白」より)


 三島は産湯をつかわれたときの「盥のゆらめく光り」の記憶を、確かな記憶 なのだと言っている。それが本当に生まれたときの記憶なのかどうか、 知るすべはない。しかし、もし本当のことだとすれば、稀有のことと言わねば なるまい。

 この三島の「生まれたときの記憶」を「心とは何か―心的現象論入門」で吉本隆明 さんが取り上げている。

 ぼくはこの光景は、違う光景なんだとおもいます。相当重要な光景のような 気がします。つまり、これは乳児期の問題を逆に胎児期のところに拡大してい ったばあいに、このことはとても重要なことのような気がします。気がするだ け、といったら気がするだけなんですけれども。(笑)たぶん、胎内から出る とき、膣の所の明るい光が見えたのだとおもいますが、確認はできません。

 乳児期と児童期が人間の生涯にとって非常に重要な時期であることを示す 「症例」としてルソー、太宰治、三島由紀夫を取り上げて行っている論述の中 の一文でした。
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