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586 鏡の中の世界
2006年8月22日(火)


 本題とは関係のない寄り道です。

 20代の一時期「数学セミナー」という月刊誌を購読していた。その中の記事で 授業で使えそうな話題を切り抜いてスクラップブックを作った。それを捨てずに いまだにとってある。そのスクラップブックに朝永振一郎先生(私が学生の頃、 私が通っていた大学の学長でした。)が寄稿した「鏡の中の世界」というエッセイ がある。昨日、「もう一人の自分(3) 鏡を見ている自分は誰?」を書いてい るときそれを思い出していた。そのエッセイでは若い物理学者たちが「鏡像は なぜ左右が逆になるのか」をめぐって「たわいのない議論」に興じている。そ の議論が面白くて自分でもあれこれ考えてみたが、そこに紹介されている議論 を超えることはもちろんできなかった。その議論がとても面白いので、今日は それを紹介しようと思う。

鏡の中の世界 朝永振一郎

 鏡にうつった世界は右と左が逆になっているということは子供でも少し大き くなれば知っている。実さい誰でも、はじめてネクタイを結ぶとき、鏡の前で ああでもないこうでもないと苦労した経験があって、このことは正に実感され ているにちがいない。ところが、これは変だぞと考えた疑い深い男がいた。鏡 にうつった世界は何も右と左とが逆に見えねばならぬ理由はないではない か。たとえば上と下とが逆になったように見えてなぜ悪いのかという。

 かつて理研にいたころ、この問題を提出した男があって、ひるめしのあと、 研究室の連中が甲論乙バクいろいろ珍説明が出た。  幾何光学によれば、鏡の前に立った人の顔のところから鏡に向って引いた 垂線の延長上には顔がうつり、足のところから引いた垂線の延長上には足が うつり、決して顔の向うに足がうつり、足の向うに顔がうつることはない。 だから、上と下とが逆になることはない。これが一説。
 この説に対してはもちろん直ちに反対が出た。幾何光学によれば、鏡の前 に立った人の右手のところから鏡に向って引いた垂線の延長上には右手がう つり、左手のところから引いた垂線の延長上には左手がうつり、決して右手 の向うに左手がうつり、左手の向うに右手がうつることはない。だから、そ の論法だと、右と左とが逆になることはないはずだという結論になる。これ が反対論。
 だから純粋に幾何光学だけからいえば、右と左とが逆になるという代わり に、つむじまがりがいて、上と下とが逆になるのだ、といっても反論はでき そうにない。

 そこでいろんな説が出た。重力場の存在が空間の上下の次元を絶対的なも のにしているからという説。これは物理屋らしい説明だが、この場合、一般 相対論などをもち出すのもおとなげないので、重力場と光線の進路との問に は何の関係もないだろう。そうすれば、この上下の絶対性は、物理空間の中 にあるわけではなく、むしろ心理的空間の性質であろう。

 問題が心理ということになると、重力以にもっと別の理由があるかもしれ ない、という議論が出た。一説として、人間のからだは上下には非対称的だ が、左右にはほぼ対称的だ、ということから起こるのではなかろうか。また 別の説。人間のからだは縦に長いからではないかとの説。一ペんに否定され た珍説もあった。人間の2つの目が横にならんでいるからという説明だが、片 目をつぶって見ても事情はなんにも変わらないではないか、と反バクされて、 この説はつぶれてしまった。

 そのうちに、上と下とが逆になって見えることだってあるといい出したもの が出てきた。畳の上にあおむけにねころんで、顔の前に水平に鏡をかかげてみ れば、畳の下に下向きになった顔が見えるではないか、という。なるほど、そ れもそうだ。そういえば、池にうつる風景は上と下とが逆になっている。
 しかし、それにもかかわらず、ではどうして縦においた鏡では右と左とが逆 になり、平においた鏡では上と下とが逆になる、というように見えねばならな いのか。そのように見えねばならぬ必然性は一体あるのかないのか。平におい たとき上と下とが逆に見えるというなら、縦においたときには、前とうしろと が逆になったように見えねばならないではないか。などなど議論がまたあとも どりして、いつまでたっても決め手が出ない。

 どうやらここまでくると、心理空間には上下の絶対性のほかに前うしろの 絶対性があるらしいことがわかってきたようだ。問題は幾何光学にあるので もなく、いわんや数学にあるのでもなさそうだ。
 右と左とが逆になっているとか、上と下とが逆になっているとか、あるい は前とうしろとが逆になっているとか、そういう判断は、鏡のうしろに実さ いにまわって立った自分の姿を想定して、それとの比較のうえでの話であろ う。そうすれば軽業師でないかぎり、結局は、鏡の横を通ってうしろにまわ った自分の方が、鏡の上を通って向うがわでさかだちしている自分より想定 しやすいからであろうし、鏡というものは自分の前すがたを見る目的で作ら れたものだから、鏡の向うがわでは当然自分はこちらを向いているものだと の前提が暗黙のうちに認められていることもあるのだろう。

 しかし、どうもおく歯に物がはさまったような感じである。鏡の中にうつ った自分の姿を感じとるのに、こんなややこしい理屈があろうとは何だか解 せない気もちもする。

 近ごろは人工衛星が飛んで、無重力状態を人間が経験することができる。 宇宙船の中は、だから上と下との区別はない。そこで、字宙船の中で鏡を見 たらどう見えるか、ガガーリンさんに聞いてみたい。そうすれば、上下の絶 対性が重力場に起因するものか、人間のからだの形とか、動作の特性に起因 するものか、一つの決め手になるだろう。
 それとも、何かもっと一刀両断、ズバリとした説明があるのか、「数学セ ミナー」の読者諸兄に教えていただきたい。

 とにかく、物理学者とは、ときどきこんなたわいもない議論をする人間で ある。ただ、この理研での議論は、あまりにも早い時期に行なわれすぎて、 リー、ヤンのパリティー非保存といったような、素粒子の法則は鏡映に対し て不変性をもたないという大学説にまで発展するには、まだ機が熟していな かった。これは何んとも残念なことであった。


 このエッセイの中に出てくる「ガガーリンさん」は初めて打ち上げられた 有人宇宙船に乗ったソ連の宇宙飛行士です。1961年4月12日のことでした。 つまりガーリンさんは無重力の宇宙空間を経験し、宇宙から地球を眺めた 最初の人です。そのときのガガーリンさんの感動の言葉は有名です。 「地球は青かった!」

 「リー、ヤンのパリティー非保存」については、とても手に負えそうもない、 40年前同様に読み飛ばすことにしよう。

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2006/08/23(水) 04:21:53 | ことば・その周辺