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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
200. 再軍備はどのうに行われてきたのか(1)
警察予備隊創設の背景
2005年3月2日(水)


 主に利用する資料は「岩波講座・日本の歴史22」所収・山極晃「朝鮮戦争と サンフランシスコ講和条約」。断りがない場合は引用文はその論文からのもの。

 まず、冷戦の緊迫化と朝鮮戦争勃発までの経過を、日本とGHQとの関係に絞ってたどってみる。 (「データベース20世紀年表」より)

1949/02/05
  アイケルバーカー米中将、
  日本の警察力増強を強調。
1949/05/07
  吉田茂首相、外国人記者に
  和条約調印後も米軍の日本駐留を
  希望と表明。
1949/07/04
  マッカーサー連合国最高司令官、
  アメリカ独立記念日にあたり、
  日本は共産主義進出阻止の防壁と声明。
1949/08/27
  日本占領軍早期終結せず、
  と米陸軍次官言明。
1949/10/11
  コリンズ米陸軍参謀総長来日(-17)。
  「沖縄の無期限保持、在日米軍の長期滞在」を言明。
1950/01/12
  アチソン米国務長官、米の防衛線は
  アリューシャン・日本・沖縄・フィリピンを結ぶ線と言明。
1950/02/05
  マッカーサー連合国最高司令官、   バタワーズ米国務次官補と会談、   極東の共産主義阻止以上に重要な仕事はないと強調。 1950/02/10   GHQ(連合軍総司令部)、「沖縄に   恒久的基地建設を始める」と発表。 1950/06/02   警視庁、GHQ(連合軍総司令部)政府の方針で   東京都内の集会・デモを6月5日まで禁止。   6.5当分禁止継続と発表。 1950/06/23   ジョンソン米国防長官、   「沖縄は太平洋における米国防衛上   の恒久的砦になろう」と語る。 1950/06/25   朝鮮戦争勃発。 1950/06/30   アメリカ政府、朝鮮への地上軍派遣を決定。   在日アメリカ軍四個師団が朝鮮へ移動開始。

 1949年は下山事件・三鷹事件・松川事件など不可解な事件が相次ぎ、それらを契機に共産党 への弾圧が熾烈を極めていった。いわゆるレッド・パージである。それらの事件は共産党弾圧 のための謀略ではないかとの説もある。

 朝鮮へ移動したアメリカ軍の空白は日本国内の治安悪化を招くとGHQは懸念した。GHQは その空白を埋めるため警察予備隊の創設を決定する。

1950/7/8
  マッカーサー、吉田首相に書簡を送る。
  「7万5000名からなる国家警察予備隊を   設置するとともに、海上保安庁の現有   海上保安力に8000名を増加するのに   必要な措置を講ずることを認める」

 「認める」なんてあるが、こりゃ、明らかに命令だな。
<
 アメリカ政府は以前から日本の限定的な再軍備や警察隊増強の必要を論じていたが、マッカ ーサーはそれまでは消極的であった。しかし朝鮮への派兵決定に直面してマッカーサーも警察予 備隊の創設に踏みきったのであり、ここで言われている7万5000名という数字はほぼ在日アメリカ 軍四個師団に相当するものであった。
 総司令部内では、予備隊創設の権限をめぐって内部抗争があったが、民事局長シェパード少将が 編成の責任者となり、日本政府機関と交渉する権限をもった。そして民政局(GS)が幹部の選考、 参謀第二部(G2)が隊員の募集、参謀第三部(G3)が部隊の配置と用兵を担当することになった。 日本側は大橋法務総裁と岡崎内閣官房長官が責任者として総司令部との折衝にあたった。
 吉田首相は、マッカーサー指令を警察力の不足を救う「絶好の機会」と受けとったと後に書いて いるが、総司令部が単なる警察力の増強ではなく、戦闘力をもった部隊を構想していることは折衝 にあたって直ぐ判明した。シェパード少将自身、コワルスキー大佐にこう語っている。「わしはマ ッカーサー元帥から警察予備隊を組織する大役を仰せつかったんだ。警察予備隊というのは、さし あたり四個師団編成で、定員7万5000人の国土防衛隊だが、将来の日本陸軍の基礎になるものだ」。 われわれは在日アメリカ軍に「とってかわる日本の四個師団を編成し訓練する仕事を与えられたのだ」。


201. 再軍備はどのうに行われてきたのか(2)
警察予備隊の実体
2005年3月2日(水)


 日本政府は内外の反発・非難を恐れて、あくまでも警察予備隊創設を警察力の増強ということで押し 通すことにした。国会開会中にもかかわらず国会にはかることなく、国会閉会後に「ポツダム政令 260号・警察予備隊令」として公布した。1950年8月10日のことである。

 アメリカ軍との交替のため、予備隊の編成は急がれ、「警察予備隊令」が公布されたわずか一週間 後の8月17日には試験をおこない、合格者は決まり次第8月23日から全国六カ所の管区警察学校に入り、 ついで朝鮮出動で空になったアメリカ軍キャンプに収容され、アメリカ軍の指揮、装備のもとに訓練 に入った。

 国会での審議もなく、国民的議論も封殺して警察予備隊は発足した。日本の軍隊はGHQの押し付 けで再スタートをしたことになる。押し付けだからという理由で憲法をおとしめている者たちは、自 衛隊の解体も主張しなければなるまい。

 ところで、予備隊員募集に関して次のような経緯があったという。
 隊員募集担当のウィロビー参謀第二部長は、その幹部に追放中の旧軍人の使用を考えていた。折り しも服部卓四郎元大佐を中心とするグループが、アメリカの反ソ戦略から日本の再軍備を想定し、 「新国防軍」建設の計画案をねっていた。これを知ったウィロビーはこの服部を予備隊の幕僚長に予定し、 服部に主要幹部となるぺき人材の選考を命じた。服部は旧軍人約400名の名簿を提出したという。
 しかし幹部選考の責任をもつ民政局がこれに反発した。また吉田首相も内外の世論の反響をおそれ るとともに東条系の旧軍人の復活を好まなかった。結局はマッカーサーが旧軍人の採用はみあわせる という裁断をした。

 警察予備隊の主要な任務は「アメリカ軍の施設、軍需品貯蔵庫などの警備であった。つまり朝鮮戦争 のアメリカ軍後方基地の安全を護ることであった。」

 一方マッカーサーの指令により8000名の増員をした海上保安庁はどういう活動をしたのか。
 海上保安庁はすでに1948年5月に創設されて、旧海軍軍人らによって構成され、沿岸警備の任務を与 えられていたが、さらに機雷除去のために掃海部隊も活動していた。そして朝鮮戦争中にこの掃海部隊 は増強され、朝鮮の元山沖に派遣されてアメリカ軍に協力し、掃海作業に従事したのであった。

 戦後わずか3年で、保安庁の方は旧軍人が復活しその要職を占めていたことになる。
 そして、警察予備隊も保安庁も、もう立派(?)に、戦争に参加していたことになる。

  さらに警察予備隊創設の翌年1951年3月に、予備隊は追放を解除された若手の旧将校たちを対象に 特別募集を開始し、6月に345名を幹部候補生に任命している。警察予備隊は佐官級の旧軍人たちがその 幹部を占めることとなった。
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