2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
585 唯物論哲学 対 観念論哲学(8)
もう一人の自分(3) 鏡を見ている自分は誰?
2006年8月21日(月)


 いまあなたは鏡の前に立っている。鏡の中の自分を眺めて、いい顔だなあ、 とほれぼれとしている。が、実はあなたが見ているのはもちろん現実のあなた ではなく、あなたの映像です。しかもその映像は現実のあなたとは左右が逆 になっている。あなたの右手の映像は鏡の中の映像では左手になっている。 こころみに鏡の中に入っていって、あなたの像の後ろに立ってみてください。 もちろん実際に鏡の中に入っていくことはできない。想像するだけです。 どうでしょうか、鏡の中に入っていたあなと鏡の中の像はピッタリ一致し ましたか。左右逆ですね。私たちは鏡で自分を顔を見ることはできない。鏡 で見ることができるのは左右逆になった顔の映像です。

 けれども私たちは、この鏡に写った自分を、映像ではなく、そこに現実の自 分がいると想像することができる。「いい顔だなあ」と自己満足に浸ってい るときは、まさに映像を実際の自分と考えているわけです。この場合はこちら 側の自分が「もう一人の自分」ということになる。

自己分裂3

この場合の「もう一人の自分」は、自分以外のどんな人間にもなれる。あなたは デートに出かける準備で鏡に向かっている。デート相手のようこさんの目にど う見えるだろうかとこころくばりしながらネクタイを直している。このときは 「もう一人の自分」はようこさんになっている。ようこさんの目で現実の自分 をながめていることになる。

 写真はレンズを通した映像を固定して記録したものです。自分の写真を見て いるときの自分と「もう一人の自分」との関係も、鏡の中の自分を見ていると きと同じです。

 写真に固定されているのは映像ですが、それを現実の自分だと考えるなら、 そのときにはむこうがわに赤ちゃんの自分がいて、それを見ているこちらがわ の自分は「もう一人の自分」になっています。写頁を写したのは、十年前のお 父さんでした。お父さんが赤ちゃんの自分にカメラを向けて、お父さんの目で とらえた自分のすがたをフィルムの上に固定したのです。それゆえ、赤ちゃん の写真を見ている「もう一人の自分」は、十年前のお父さんになって、その目 で赤ちゃんの自分を見ていることになります。こうして見ているうちに、「も う一人の自分」の心のなかにそのときのお父さんの気もちがよみがえって、胸 が痛く感じられるかもしれません。お父さんの体験をくりかえしているからで す。

 千年も千五百年も昔の人がのこした文章を、現代の私たちが読んで心を打た れるのはなぜでしょうか?そこにならんでいるのは印刷した文字としか見えま せんが、それはその文章を書いた筆者の精神の鏡だからです。その筆者の美し い心のありかたを写しとって、固定し保存しているからです。私たちは「もう 一人の自分」になってその鏡に接しながら、その書かれたときの筆者の心のあ りかたがもう一度自分の心によみがえるよう努力します。このようにして、筆 者の心が読む人びとに伝えられ、読む人びとを感動させることになります。

 これも、お父さんの写真の場合と同じように、それをつくり出した人の体験を くりかえすことです。これを追体験とよびますが、芸術を鑑賞するとい うことはこの追体験を正しく行うよう努力することにはかなりません。「もう 一人の自分」について正しく理解できないと、追体験という問題も理解できな くなります。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/429-ebc747d1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
〔2006.08.19記〕 「他人(ひと)の振り見てわが振り直せ」「他山の石」のようなことわざや故事、あるいは「人をもって亀鑑(かがみ)となす」といった表現の存在は人間が他者の姿や行動をわが身にあてはめて自己を反省する
2006/08/21(月) 14:27:06 | ことば・その周辺