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164. 『「非国民」手帖』を読む(30)
2005年1月25日(火)

 『「非国民」手帖』は百二十数編の小論を収録している。そのうち約四分の一を読んできたこと になる。まだ四分の三を残しているが、シリーズとしてはひとまず閉じることにする。
 このページで今後どういう事柄を取り上げるか、いきあたりばったりで私には予定がない。今後取り上 げる論題と関わるものが『「非国民」手帖』の読み残しの中にあれば、その時はまた援用させて もらうことにする。

 さて、一応の締めとうことで「あとがき」を読むことにする。筆者は「歪」氏。
 
 本コラムは、資本主義に耽溺しながらも、けして満たされることのない淋しき《プロレタリ アート》の魂を抱えた《同志》にあてて書き継がれてきた。
 時評コラムに、いまさら総括でもない。足すべき言葉は、本来不要のはず。だが、まあ、せ っかく与えられた「あとがき」の場だ。もうひとコラムのつもりで付き合ってくれ。
 まずは、資本主義の愉楽をしゃぶりつくせ、ということだ。
 資本主義が《商品》とそれに対する《欲望》そのものをも同時的に生産しつつ、《欲望》の充 足を達成したのに対し、《左翼》はそれを超える《世界》像を提示し得なかった。
 《左翼》の想像力は資本主義の発達のスピードに遅れをとったのだ。
 ならば、資本主義のあり方にその身を根底から洗われ、深く沈潜させないことには、どんな 《思想》もはじまりはしないはずだ。

 私はここで言われている意味での《同志》と自認する。そして「資本主義の愉楽」をみみっちく 楽しんでもいる。いくらかの後ろめたさを覚えながら。
 「歪」氏はそんな私のみみっちさを蹴っ飛ばしている。後ろめたさなど覚えるからみみっちくなる、 後ろめたさなど不要だ。必要なのは「資本主義」の正体を透徹して見据えること。そのためにこそ 「しゃぶりつくせ」とアジっている。
 マルクスは『ユダヤ人問題によせて』でこう記している。「普遍的利害と私的利害との衝突」 即ち「政治的国家と市民社会との分裂」と(引用は岩波文庫版。傍点は原文)。
 本来なら、マルクスのご託宣をビリッと挿入しとけばそれだけのことだ。しかし、マルクス もとんと近頃は遠景に追いやられてることだし、ここはケーモー的にいこうか。
 つまりこうだ。

 『ユダヤ人問題によせて』について、「自由について(1)(2)」(2004年12月30日、31日)で私が 参考にした部分と同じくだりを「歪」氏も取り上げている。ただし私のは単なる要約に過ぎなかったが、 「歪」氏の論考は自分の言葉で噛み砕いているので分かりやすい。次のように論じている。
 近代では《国家》と《市民社会》は分裂している。あるいは《政治》と《経済》の分裂とい いかえてもよい。《国家》の成員という側面から人間を捉えた場合、それは共同的で普遍的な存 在といえる。政治的には、すべての国民は、同じ重さの一票を有し、平等の立場で共同体に参 加している。一方、《市民社会》の構成員という側面から見れば、バラバラな《個》が、全く不 平等な経済条件下で、個別的な利害を衝突させ、永遠に解消されない対立を展開している。  それが、人間は、《国家》という《幻想》上では共同性を有しつつ、現実の生活では相互に対 立する《個》でしかあり得ない、ということだ。 《国家》という共同性を疎外することで《個》に解体されるということ。それがまさに資本主 義社会における《自由》の由来だ。この社会では誰もが否応なしに《自由》であらざるを得な い。富裕があれば貧困もあり、栄光があれば悲惨もある。それが《自由》な社会ということだ。  制約や管理がない社会のことのはずだ、てか。それはもちろん《自由》だろうさ。そこでは 私意と私欲が剥き出しでぶつかり合っているはずだからな。

(次回に続く)
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