FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
156. 非暴力直接行動(2)
大杉榮の「直接行動論」
2005年1月17日(月)

 大杉榮が労働者向けの小雑誌に匿名で書いたという「僕等の主義」という小文がある。 まずそれを読んでみる。
 自分の事は自分でする。
 これが僕等の主義だ。僕等労働者の、日常生活の上から自然に出來た、處世學だ。
 僕等には、それで食つて行くと云ふ、親の財産はない。又齧るべき親の脛もない。僕等は小學 校を終へるか終へないうちから、自分で働いて自分で食つて來た。自分の身の廻りの一切の世話 も、親や兄姉の忙しい僕等の家庭では、子供の時から總て自分でやつて來た。
 自分で自分の事をするのはいい氣持だ。何事にでも我がままがきく。勝手でいい。威張られる 事もなし、恩に着る事もなし、餘計なおせつかいを云はれる事もない。
 少し大きくなつて、世間とのいろいろな交渉が出來始めてからも、やはり自分の事は大概自分 でしなければならなかつた。そして、やはり自分でやるのがいつも一番氣持がよかつた。自分の 事は自分が一番よく知つてゐる。自分の事は自分が一番熱心にやる。失敗すれば失敗するであきらめ もよくつき、又新しい方法の見當も直ぐにつく。人にやつて貰つたんでは、不足があつても、有 難うとお禮を云つて満足してゐなければならない。よし又うまくやつてくれたところで、自分で しなかつた事が僕等には不足になる。
 世間は益々複雑に且つ益々面倒になつた。敵と味方の區別すらもちょつとは分らない。人に頼 んでは馬鹿ばかり見る。殊に何か甘さうな事をやつてやらうと云ふ先生等にたのむと、いつも必 ず大馬鹿を見る。
  自分の事は人を頼る前にまず自分で行動を起こせ、特に「何か甘さうな事をやつてやらうと 云ふ先生等」は頼るなという。ここで言う先生とはもちろん「代議士先生」だ。

 アナーキズムとは何か。
 「自分の事は自分でする」。これまでの私の理解ではこれが第一のキーワードだと思う。

 大杉の論文に、ずばり「直接行動論」という題のものがある。こんどはこれを読んでみる。

 ことしはたちになる某と云ふ女が、茨城縣下の宿屋五六軒に奉公して、どこででも淫賣を強ひ られるつらさに堪えられなくなつて、とうたう府下大久保の慈愛館に泣きすがつて來た。慈愛館 と云ふのは、多くはさう云つたたちの女を救ふ、キリスト教の一設備である。
 此の慈愛館と多少の關係のある、矢島揖子女史を會長とする婦人矯風會では、此の事實を某と 云ふ女一人の問題ではなく、すべての職業婦人に關する問題だと見た。そして、これを機會に、 主人が女中を、上役が女工を手籠めにすると云ふやうな行爲に対する制裁の記録を、法律の上に 求めようとした。
 が、此の事件は、昨年の五月以來、水戸の地方裁判所から東京地方裁判所、次いで控訴訴院、 大審院へまでも訴へ出たのだが、どこででも遂に「軽微な問題として」取れあはれなかつた。そし て最近、矯風會本部では、おもなる會員が集まリ、「日本には處女の貞操を保護する法律がない」 ものと認めて、此の事実を全國の婦人に公表して輿論を喚起する事にきめた。同會幹事久布白落實 女史は、此の問題に就いて、新聞記者に語つて云ふ。
 「今までは裁判所にすがつて出來るだけ闘つて見た。が、其の結果は無効だつた。そして私達は 判然と自覺した。日本の幾百萬かの處女は,貞操に就いて法律の保護を受ける事が出來ない。自 分の貞操は自分で保護しなければならない。で、私達は此の事を社會に訴へて、女性の自覺を促 さうと思ふ。」

婦人矯風會が、果して此の直接行動論に徹底する事が出來るかは、疑はしい。現に彼等は、こ んどはそれを議會の問題にしょうとして、騒ぎ廻つてゐるらしい。が僕等は、ヤソの、お嬢さん やお婆さんたちにそれを責めるやうな野暮ではない。そこまで動いて、そしてうはベだけでも、 とにかくそこまで悟つて來たのは彼女等にしてはもう大出來なんだ。

 裁判が現在でも当てに出来ないしろものであることはもうたびたび思い知らされている。

ピアノ伴奏拒否事件(日野市立南平小学校)人事委審査→棄却裁決→東京地裁提訴→棄 却判決→東京高裁控訴→控訴棄却→最高裁に上告中

国立二小リボン着用事件 審査請求→棄却裁決→東京地方裁判所へ提訴

国立二小・強制移動事件 人事委審査請求→棄却裁決→東京地裁提訴

 良心の自由も表現の自由もまるで無視されているような裁決が続いている。 憲法が保障しても支配者どもは憲法を無視する。裁判官まで憲法を無視する。まともな裁判官いないのか。

 ところで、ここで大杉は労働者のゼネストに限定せず、「自分の貞操は自分で保護」するために当事者が立ち上がる ことも、「直接行動」と呼んでいる。

 けれども、僕が今特に此の問題をかかげてここまで書いて來たのは、それに就いて吾々労働者 がお互ひにもう少し考へて見たいと思ふ事があるからだ。
 矯風會のお嬢さんやお婆さんたちは、別に法律で保護されなくても、其の貞操を守る事が出來 る。彼女等は、結婚と云ふ一種の淫賣の外には、滅多に淫賣を強ひられる事はない。滅多に手籠 めに會ふ事はない。又そんな事があつた日にや大變だ。世間は忽ちに大騒ぎになる。女中や女工 の、勞働者の場合とはまるで違ふ。
 手籠めと云へば強姦だ。そして此の強姦には、確かに、それを制裁する法律がある筈だ。けれ ども、女中や女工の勞働者の場合には、恥しいとか世間ていとか云ふ事以外の理由から、それを 訴へ出る事の出來ないのが、どんなに多いだらう。法律があつたつて何んにもならないんだ。

 なぜだらう。
 一言で云へば、彼等には力があつて、吾々にはそれがないからだ。そして法律は此のカの味方 であるからだ。
 女中や女工だつて、淫賣を強ひられたり手籠めに會つたりする時には、直ちに其の本人たちが 騒ぎ出すがいい。大ぜいで騒ぎ出すと云ふ事は、弱いものの持つてゐるただ一つの力である。五 人でも六人でも、其の宿屋なり工場なりにゐる者が、皆んなして騒ぎ出せば、いくら主人でも上役 でも滅多に手を出せるものでない。
 斯うして、何によりも先づ本人が、自分で自分の力を確かめて行く。そして其の力で自分を守 り且つ育てて行く。それを、どこまでも自分が勝手に推しすすめて行ったのが彼等なんだ。  どこまでも自分勝手に推しすすめて行くんでは困る。僕等は彼等の其の眞似はしたくない。け れども、彼等のやうに法律があらうとあるまいと、勝手に自分を守り且つ育てて行く事が出來る やうになる爲めには、やはり彼等を眞似て、自分で自分の力を確めて行く外はあるまい。  そして、さうするには、前にも云つた僕等に残されたただ一つの力を、養ひあげて行く外に仕 方はない。 法律があつても、警察があつても、又裁判所があつても、力で處女の貞操を侵さうとするもの がある時には、やはり其の女自身の力のほかにはそれを防ぐ何ものもない。
 彼等(大杉の用語で言えば「紳士閥」)のように「自分勝手」なものではいけないが 「やはり彼等を眞似て、自分で自分の力を確めて行く外はあるまい。そして、さうするには、 前にも云つた僕等に残されたただ一つの力を、養ひあげて行く外に仕方はない。」という。
 「僕等に残されたただ一つの力」とは、言うまでもなく「自分のことは自分 でやる」自立した者たちが組むスクラムである。
スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/403-d83a7469
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック