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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
154. 選挙について(5)
2005年1月15日(土)

(水田ふうさんの論文の続き)

 普選施行以後、投票の意味をもっとはっきりさせてる例が敗戦後のアメリカ占領軍によって改正 された選挙法や。

 こんどは普選法以上にもっとひろげられて、国民の半分にあたる女が有権者になった。それで女 たちは一体どういうことになったんか。それから50年ほどたったけど、女たちはどれだけ自分らの 世界を獲得できたんやろ。「リブ」の五年十年の方がもっと大きいものを生み出したとわたしは思う。


 ちなみに、戦後の第一回衆議院選挙は1946年4月10日に行われた。女性当選者は全464名中39名(進歩党6、自由党5、 社会党8、共産党1、協同党0、諸会派10、無所属9)だった。


 そして無告窓の棄権ハガキ運動以来、反政党はもとより反選挙の声もきかん。それはもはや運動 にはならんのや。なにしろ投票を拒否するもんは非国民やもん。

*

 辺見庸さんが、「1999年問題」いうことをしきりに云うてはる。こんな事態になってんのに、 景気の心配ばかりでなんも運動がおこらん。自分もまわりの人もだんだんと年とって、運動する のにくたびれてしもた、ということもあるけど、これは、やっぱり、選挙制度にみんなからめと られてしまったせいやと私は思う。制度の枠の外に出ることなんか、てんから考えられんように されてるんや。

 そして「ガイドライン関連法」たら、「盗聴法」たら、「国旗・国歌法」たら、「改正住民基本 台帳」たらいうエライもんが、あれよあれよというまにわたしらの選んだという代表によって通って しまった。こんなもん、実際、だれが賛成しとるんや。

 つくづく選挙制度いうのは、国民という名のわたしらが責任をとらされるという制度や。

 無関心のおまえが悪い、投票したのはおまえたちやないかいうて。そやけど、投票しても何も変 らへん。たまたま一人とおってもどうにもならんという仕組みになってる。

 つまり投票は国民の権利というけど、ちょうど「刀狩」みたいなもんや。一枚の紙で全権委任さ せられ、国はそれを逆手にとって、なんでもしよる。文句言う奴は、合法的暴力――法律――で取 り締る。国民の権利どころか、権利を取り上げ、文句いわさん制度が選挙制度なんや。(*註4)

 まじめで、こころざしある人ほど、「みんな政治に無関心や」ゆうてなげく。そして、投票に行け、 と説教する。左翼も、筑紫哲也も、加藤典洋も同じや。誰ひとり、投票するな棄権せよいう人はおれ へん。

 けど、わたしは、投票率が低いのかて、もっともっと低くなったらええ。10%切ったらおもろいで、 と思ってるんや。

 私は選挙では「真面目人間」やっているが、内心バカバカしく思ってはいた。 時々友人たちに「投票率が 低ければ、政権の正当性があやしくなり面白いのでは」というようなことを言うが当然のこと 歯牙にもかけてくれない。でも投票率が10%をきるほど低くなれば、こりゃ、面白いなあ。

 今イラクで傀儡政権の正当性を虚構するための選挙が準備されているが、選挙の欺瞞性が露骨に 表れているいい見本だ。選挙の実行が難しい状況のようだが、行われたとして、投票率が極端に低け れば面白い。傀儡政権はどう対処するだろうか。注視したい。


*註4 「擬似非暴力体制」  「現代暴力論ノート――非暴力直接行動とは何か」(向井孝) に疑似非暴力体制ということがしきりに出てくる。

 今の体制は、改めて云うまでもなく専制国家ではない、軍事国家でもない、民主主義国民国家ということになってる。とは云うても、国家の本質である暴力性はなんも解消されていない。たしかに国の政治は選挙―投票によって、選ばれたわたしらの代表と呼ばれる人達によって行われている。そして、その人たちがとりきめた法律によって、裁判所も監獄も警察も軍隊も暴力装置にちがいないのに、いかにも非暴力の顔つきをして、合法的にわたしらを支配してる。

 けっして暴力による支配ではなく、自縄自縛のこの疑似非暴力体制。これが現代社会の国家の特質や。その疑似非暴力体制をなにより保証しているのが選挙制度なんや。



 かって革命とは、暴動・反乱・一揆にはじまるもんで、「暴力革命」の謂やった。暴力的でない「平和革命」は、空想的・非科学的社会主義としておとしめられるものやった。

 そのことにおいて、幸徳秋水が提起した、非政治的な「直接行動」の現代史的な意味は大きい。

 向井さんは、その「現代暴力論ノート」で直接行動の本来的意味 として、生産・創造・遊戯・そのよろこびとおもしろさを挙げてる。それはまさに、人民のみがもつ「暴ニ非ザル力」なんやけど、その直接の享受を妨げ疑似化して収奪するシステムが、現代の選挙投票に外ならんのや。
 ここで登場する向井(孝)さんは水田さんたちのグループの理論的支柱だったようだ。その著書 「現代暴力論ノート」は、戦後日本のアナーキズム運動における最高の理論的達成と評価されているとい う。がぜん興味をかきたてられた。いずれ読んでみようと思っている。なお向井さんは2003年8月6日に亡くなられている。

 選挙に対峙する行動として「直接行動」が挙げられている。水田さんたちは詳しくは「非暴力直接行動」 と言っている。項を改めて取り上げようと思う。




 アナなんてもんは、もうずっと時代おくれになって、バカにされ、ほんの一部のものずきの人にめず らしがられてるだけやけど、いまわたしらが手も足も出されんようなことになってるそのおおもとは、 直接行動というもんをそもそも「普選」にからめとられてしまったことにはじまるんやと、運動史を みてつくづく思う。

 アメと思ったものが実は、自分の首をやわらかく、じわじわと、自分で絞めるしびれ薬を染み込ませ た真綿やったんや。そのしびれ心地をアメと思いこんで、アナ以外の社会主義はそのはじめから運動し てきたんやった。

 先号で中島君が言ってる「過去からやってくる未来」ということでいえば、いまから百年のむかし、 自分らのことは自分らで決めようというあたりまえのことをあたりまえに云って普選と闘ったアナキ ストと呼ばれる普通の労働者たちがいた。
 そのことはまさに過去からやってきた未来――いまの問題ではないんか。

 人々の意識は、むかしは遅れてて、今のほうがずっと進んでるなんて思ってるけど、とんでもない。 直接行動という言葉の意味をはっきりと自覚して自分たちのもんにしてたのは、百年もむかしのひと やった。

 この後百年たってもまだ選挙制度なんてもんが残ってるかどうかしらんけど、まず政党という政党と 選挙制度をつぶさんかぎり、どうにもならん、と、わたしはいいたい。

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