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153. 選挙について(4)
2005年1月14日(金)

(水田ふうさんの論文の続き)
 七、八年も前やったか、全国の「反原発」の市民グループが地方ブロックをつくって選挙にうって 出た時、何かの集まりで、ついうっかり「わたしは投票にはいかへんねん」というたら、「そういう のは非国民や」と、はげしい感情的反発が会場から出て、びっくりしたことがある。


 そのような場で「非国民」などという言葉が飛び出るとは、さぞびっくりしたことだろう。 自分(たち)は健全な国民という意識があるから「非国民」という非難が出てくる。この種の 市民運動の限界だな。真摯に本質的に闘うものを「過激派」と非難する心性と同じだろう。ともあれ 期せずして選挙の本質を暴露したことにもなると言うべきか。


 「あれはアナキストやから」という声も聞こえて「投票に反対するなら爆弾でもなげるんやな」とも 云われた。ほんまに爆弾でも投げたいわい。でもそれはいっとき、自分のきもちの解消にはなっても 事態はひとつも変わらん。もっとワルなるやろ。

 いま思ったら、たしかにその時は、一票でもほしかった反原発の運動仲間にとっては、「非国民」 よばわりしたいくらいに切羽詰った気持ちやったんやろ。

 それにしても、選挙のカラクリなんてミエミエやと思うのに、本気で自分たちの「代表」が選べるな んて必死になったり、そうかと思えば、あきらめながら、「次善」?にいれて、歯止めをかけようとす る真面目な人がおるから、みんなで選んだ国会とか政府なんてことにされるんや。わたしにはどうした って、選挙制度というのが諸悪の根源に思える。(*註・1)
 絶対反対してるのに、道路やダムや橋やゴルフ場や堤防や原発や飛行場や……みいんな選挙 のたんびにできてきたんとちがうか。



 そうだよなあ。選挙をやる度に状況は悪くなる。支配者どもは「民意を得た」などとほざいて、意のまま に事を運ぶ。私、いままでとっても「真面目な人」を演じてきたが、これからは心を入れかえて不真面目に なろうかな。

 以下、選挙制度の変遷とその問題点を論じている。選挙制度とアナーキズムの歴史の学習のつもりで読んでみる。 アナーキズムとは何なのかも分かってくるように思う。




*註・1「普選まで」
イ・明治22年の憲法発布、23年の国会開設で、明治専制政府は、
 一応近代国家の形をととのえる第一歩を踏み出す。とはいうも
 のの「年15円以上の国税を払う25才以上の男子のみ」が有権者
 で、つまり絶対多数の貧乏人は、「政治」のカヤの外で何も文
 句が云えんというかたちやから「貧乏人に参政権を!」という
 のは、自由党以後、明治社会主義に共通するスローガンやった
 ともいえる。

ロ・明治39年、出獄した幸徳秋水は、身動きもできぬ閉塞した状
 況のまま、むしろ脱出のおもいで海外の旅へと出た。しかし半
 年ほどの滞米だけで帰国、早々「帰国演説会」を開いた。それ
 が「世界革命運動の潮流」と題して運動の大転換をといて、内
 外へ大衝撃を与えた――「経済的同盟大罷工を主張する直接行
 動論」――やった。

それについて吉川守圀は、

「この演説にしばしば引用されたのは、350万の投票を有する独
逸社会党に始まる議会政策への批判であり、果然社会党としては
それこそ寝耳に水とも称すべき、全然予期せぬ一大波浪に見舞わ
れた形であった」―荊逆星霜史―

とかきのこしている。

ハ・この幸徳が主張する直接行動論に対し、堺・山川らは、幸徳
 寄りのやゝあいまいな中間的立場をとる一方、田添鉄二、片山
 潜らは専ら「普選」を掲げて、社会主義運動内に二つの流れが
 顕著にでてくる。

ニ・それが大正の中期になると「大杉らアナ派サンジカ派」と
「一応アナ寄りの中間派」それと「普選派・のちそれにまぎれ込
 んだボル派の政治運動派」という三区分になる。あっさりいう
 たら、「反選挙派」と「普選派」。


 2
 そして、長い間のすったもんだの運動のあげく、1915(大正14)年、3月~4月にかけて、 いわゆる「アメ」と「ムチ」の抱き合わせといわれて「普通選挙法」と「治安維持法」(以下 普選法と治維法と略)が公布実施されたんやった。(*註・2)

 「アメ」と「ムチ」というのは、第二次山本権兵衛内閣法相・平沼騏一郎(こいつ、幸徳秋水 大逆事件を指揮した検事上がりの曰く付のワルや)が、――犬養毅の要求する「普選」にたいし、 「それに同意してやるが、共産党などの結社を禁ずる法律を出すが賛成するか」ともちかけ、 同意を得た、――と近刊の岩波新書『思想検事』(萩野富士夫著)にも書いてある。

 冶維法はそんな経過で、「国体ヲ変革シ、マタハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結 社ヲ組織シ、マタハ情ヲ知ッテコレニ加入シタモノハ十年ノ懲役(これ、三年後には勅令で 「死刑」にかわる)、マタハ禁錮ニ処ス」という第一条だけでもあきらかなように、戦前昭和の 大狂気時代を現出する法律や。としたらそれと抱きあわせの普選法は、よっぽど甘いオイシイもん でなければならんワケになる。


*註2 「治維法第一号」 
 ちょっと脱線。「冶維法」の第一号適用は、大正15年1月の京
大学連事件とよばれる「社研」の活動禁止に始まるといわれてる。
ところが、岩波の『近代日本総合年表』には、冶維法施行まだ
一ヶ月そこそこの大正14年欄に「6月17日・警視庁、大阪の秘密結
社〈黒社〉(ブラック社)の幹部二人を、最初の治安維持法で検挙。」
と載ってるんや。これ多分、戦後の『平民新聞』編集をやってた
久保譲さんのことやろ。

 久保譲さんは、大正12年3月、明大を卒業して、実家の大阪に帰り、
『黒社』をつくって活動をはじめるんやけど、もちろん秘密結社とか、
幹部なんていうようなたいした組織やない。年表の出典や資料がわか
らんのでなんともいえんけど、大正12年12月16日、大阪でひらいた
大杉栄の追悼集会に、久保さんは発起人の一人になってる。開会の辞
を述べ、さらに『黒社』の代表として弔辞を読んだと記録されている。

 その時の弔辞が激越で、秩序を乱すとして岡部よし子、矢野準三郎
その他二人と共に中止を命じられてる。そんなことでずっと目をつけ
られて、無政府主義者やから、私有財産否定やろ、いうて早々まず狙
われた――のとちがうか。



 さて、その普選法の公布によって、三年のちにはいよいよ選挙が実施されるというんで (女子、小人、朝鮮人、台湾人をのぞいて)、貧乏人も投票できることになった、とい うんやから、アナ派以外の無産派の殆どの運動体は、普選派はもとより、どっちつかず の中間派も、皆にわかに政党をつくって選挙運動へといっせいに流れていった。つまり 猫も杓子も選挙に打って出て、世の中を変えよういうて、アメ?にとびついたわけや。 (平沼らのしかけにひっかかった。これ、ほんまはフセンやのうて冶維法を通すための 「伏線」やったんやな。)

 そして昭和3年2月に行われた第一回普通選挙の結果は?というたら、全国に「無産政党」 がいっぱいできて、数百人が立候補したあげく、当選したのはたったの八人!
 やっぱりそれまでどうりに、民政党・政友会が絶対多数をとって、政治はちっともなにも かわらんどころか、冶維法ばかりが横行するようになった。

 そんなら、当時のアナは何してたんか。

 わたしはこのところ向井さんの手伝いで「運動史」 をちょこっとかじってるんやけど、 そんな普選へ普選へとなびいていく流れに対して、例えば昭和2年6月「反政党運動」いう 新聞を江西一三、山本忠平(陀田勘助)らがつくったり、政党集会などへぶっこわしの殴 り込みをしかけたり演説会を開いたりするんや。(そこで云うてる中身はあたりまえのこ となんやで。自分らのことを、人にたのんだり、お願いしたりなんて、ひちめんどくさい ことせんと、自分らのことは、自分らで直接にやろういうことを云うてるんや。)(*註・3)

 それはすぐつぶされて、そのあとは冶維法の弾圧と軍国化の下で、力を殆ど失っていく。

*

 1967年に、アナキスト松村潔さん「無告窓」が、「棄権」を呼びかける五万枚のハガキを東京 都内にくばった。朝日新聞の命名では、「棄権勧誘事件」というのやけど、松村さんにしてみたら、 バクダンなげるような思いやったやろ。この頃ハガキ一枚なんぼやったか。一枚10円にしても50万円や。 (わたし、この年高校を卒業して就職して、月給1万2千円やった。)50万なんてごっつい金やで。 でも、こんな大金つこても、マスコミをちょっと騒がしただけで、運動としてはぜんぜんひろがらん かった。むしろバカにされたぐらいや。


*註3 「反政党運動」など 
 普選反対のためアナ派は、たとえば大正14年12月のボル系農民
労働者党の結党式にいっせいにおしかけ、会場占拠する。その共
同行動を契機に全国組織「黒色青年連盟」(黒連)が結成され、
さらに、15年5月に「全国労働組合自由連合会」(自連)がつくら
れる。

 その機関紙「黒色青年」や「自由連合」をみると、組織の中心
として印刷工組合は当然としても、アナならではの分野として
「関東自由労働者組合連合」「東京新聞労働連盟」(配達人)な
どの活動が目立つ。

 なかでも、関東自由の中心、江東自由労組の動きはめざましい。
「自連」紙十号までにあげられている人名だけでも、大沼、山本、
歌川、斎藤、高田、守下、時永、古江、横山、田中(玄)、宮崎、
鈴木、滝沢、窪田、武森、荒井、安西、平尾、牧野、大野、久保、
武田、彦坂、らと二十数名に及び、たまたまひらいた六号には
(復刻版60頁)「横死労働者鎖供養―検束20余名―」とか
「北海道、監獄部屋打破のための調査に派遣していた宮崎、
十月末帰京」の記事がみられる。

 そして昭和2年6月、この「江東自由―(アナ活動をする時は
「黒旗社」を名乗った)」の有志が中心となって刊行されたのが
「反政党運動」で、新聞型2頁、大衆啓蒙・宣伝紙として発刊された。

 執筆者は、山本忠平、横山煤太郎、難波正雄、江西一三(署名人)。
(江西さんは、70年ごろ、サルートンのアジトへきはった時、何度か
見かけた。たしかその時は、総評の中小企業争議対策部長で、そやか
ら生涯、労働運動ひとすじの人や。)

 「反政党運動」の発刊の趣意を一部抄出すると、

「…闘争手段として採用されつゝあるものに二様の手段がある。一つは
政治運動に依る…共産主義者及び改良主義諸政党であり、一つは非政治
的結束に依る…自主自治的…闘争手段とである。…

 代議政体は政党に原動力を置く。政党とは中央集権的絶対制組織である。
少数幹部の政権獲得闘争の集団である。…無産階級の国家、労働者独裁…
を宣伝している「ソビエト・ロシア」も実質的には、共産党の少数幹部
の絶対専制独裁である。…

 「労働者の解放は、労働者自らに依ってのみ達成される」われらはこの
自からの力を信ずる。…

 われらは現下の政治闘争による力の分散より、経済的分野における戦闘
力の集中をはからなくてはならぬ。分裂と攪乱以外に何もない政党運動を
廃し、経済的共同戦線による全国的総連合こそわれらは望む。それは反政
党的結束になる直接的経済行動によってのみ達成される。…」

 その第二号紙上に発表した支局は、東京十一、大阪六、その他茨城、
福岡、水戸、名古屋、横浜、静岡、旭川、等にあり、大阪では新世界、
東京では新宿、渋谷、銀座の街頭で辻売りが行われた。 その他東京帝
大仏教青年会館で演説会も開かれた。…(「反政党運動」なんて、
今ではちょっと考えられん積極的な提起やないか。)
(つづく)
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