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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
582 唯物論哲学 対 観念論哲学(5)
またまた番外編・靖国神社は戦死者への冒涜神社だ。
2006年8月18日(金)


 「第288 詩をどうぞ(19)2005年6月1日(水)」で掲載した愚作詩と 「第576回 8月12日」で書いた文章の一部を再掲載する。


メイモウの国

ヤギがメイとなくと
ウシはモウとなく

首相がヤギで
首都の知事がウシで
ヤギとウシがメイモウと勇ましい

ためにヤギウシが急速に繁殖して
メイモウの唱和が喧しく

メイモウヒノマル
メイモウキミガヨ
メイモウヤスクニ

ちかごろヤギウシは
「手味噌正義」のブッシュに迷い込み
1938年のヤギウシに退化して
いよいよ威丈高だ
メイモウメイモウと踊りながら
先の大戦での膨大な死者たちに
無駄死を強いようとしている

が、ヤギウシはその迷妄に気づかない

『全ての戦没者はその家族や友人や恋人の心の中で追悼されているし、それし か本当の追悼はありえない。国家がしゃしゃり出る問題ではない。国家はひた すらあの無謀な戦争を反省し、被害者に償い、戦争を起こさない外交や施策に 一生懸命邁進するだけでよいのだ。国家による殺人を正当化するために戦没者 を利用するな。』

 どちらの文も、私は兵士だけではなく、また日本人だけでなく、国家によって 殺された全ての戦没者を念頭に置いて書いているが、靖国問題の本質はやはり 「英霊」扱いされている戦死者の問題である。ヤギウシ(コイズミ、イシハラ) を代表とする国家主義者の靖国イデオロギーの本質をえぐるためには戦没者を とりあえずは「英霊」に限る議論が必要だろう。なにしろ彼らのイデオロギー では他の戦没者は見事に無視されているのだから。

 ヤギウシのメイモウがなぜ戦死者の死を無駄死に貶めることになるのか。 ヤギウシの靖国参拝が戦死者の冒涜でしかないことを論理的に明らかにした いと思っていたが、明確な言葉にできないでいた。

 コイズミの愚行に大騒ぎをするマスコミが垂れ流している靖国議論は、 「心の問題」はいいとかけしからんとか、「中国・韓国」に屈するなとか配慮 しろとか、賛成派反対派を問わず上っ面をなぞるだけの皮相な駄弁ばか りだ。そんなことは知れたことだから私は新聞社や識者という売文業者の 論評は全く読まなかった。もちろん靖国問題を扱ったテレビ番組など全く見 る気がしない。あんな愚行は無視すればよい。みんなが無視すれば、コイズミ はピエロだね。裸の王様だ。裸の王様を裸だと指摘できるものは何処にいる?

 マスコミと無縁の所で、本質的な議論がなされている。今日、私の思いを 代弁してくれている論考に出会った。筆者は三上治さんです。

「戦死をめぐる断章」

 その論考の一部を抜粋する。関心をお持ちの方はぜひ直接全文をお読みく ださい。

 [国家のために死ぬ]とか「英霊」とかいう言葉は実際にどのような現象 として存在したかを経験的に知っている人たちがいれば、恥ずかしくていえ ないという雰囲気もあったが、そのような人々が消えて行けば、神話化され て流通するようになる。戦死を身近で目撃した人や、戦死者の声を聞き届け られる人々が少なくなれば、戦死者を顕彰し、恥ずかしげもなく英霊を口に する連中がまたぞろ出てくる。

 戦争は死の契機を用意する。それは人間が殺しあうことであり、その場面 を用意することである。国家と国家が武力をもって対立することだが、そこ に他の国家の存在が恐怖としてイメージされている。侵略でもいいが、他国 によって殺されるかもしれないという恐怖がイメージされるのだ。この他国 への恐怖は歴史的に見れば自然に属することと思われてきたし、国民は他国 への恐怖と戦うために死を怖れない覚悟を要求されてきた。国民はそれに応 じ、戦場に出かけていった。これは戦死者に訪れた現実的契機であった。こ の戦争という現実的契機が戦死を生み出した。戦争の過酷さは普段ならば 想像しない死の恐怖を引き寄せたことである。死を想像して日々を生きる 残酷さである。それを至福の時というのは、それに距離のある人間がいうこ とである。現実に死が訪れた戦死者の心がどのようであったかは想像するし かないが、彼らが国家から与えられた栄誉ある戦死も英霊という観念も欺瞞 であることに気がついたのではないか。戦死に近いところから生還した人や 戦死を身近で目撃した人の証言はそれを語っている。国家の強いた観念的自 殺にこころのうちでは抵抗感を持ったのではないか。戦死者の声を聞く耳が あればそれは聞こえるはずである。

 だから、「英霊」などと戦死者を持ち上げることや顕彰として祀ることは 追悼ではなく、その名を借りた冒涜に過ぎない、と思う。戦死という時代的 な死を避けられなかった人々の追悼は、国家の本質と戦争の批判を抜きには ありえない。


 靖国神社も英霊も神がかり哲学が生み出した欺瞞以外のなにものでも ない。三上さんの思考はその対極にある科学的な論考です。
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