2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
580 唯物論哲学 対 観念論哲学(3)
哲学には2種の哲学しかない。
2006年8月16日(水)


 「哲学入門」の初版本は1948年に発行された。今から62年前、敗戦後3年のこと です。「こころとことば」と同様、中学生以上の人を対称に書かれたのだと思う。 つまり中学生にも読める。しかし、決してレベルを落としてはいない。したがって、 もちろん大人が読んでも手ごたえのある内容となっている。まず「哲学入門」を ひもといてみよう。

(これからの文章は、いくらかは私の見解も入るが、三浦さんの著書を要 約していくものであることを改めて 断っておく。そして今回から一つの試みとして、長い文そのままの引用以外は 「三浦さんによれば…」とか「…と三浦さんは述べている。」とはいう添え 書きはしないで、まるで私自身の考えを述べるように書いていこうと思いま す。そういう添え書きは書いているときとても煩わしい。読む人にも煩わしい のじゃないかと思ったからです。また、三浦さんは具体的な例をあげながら分かりやすく論を進 めているが、なにせ61年前の著作なので、今の時点では知らない人の方が多いと 思われる例もある。そういう場合は、もし適当なものが私に思いつけば、それと入れ替えます。 以上の2点、許されるやり方だと勝手に判断しました。)

 哲学って何をする学問なの?答えはいたって簡単で、「哲学とは世界の根本原理 についての学問」です。だからそれは社会経済や政治の問題ばかりでなく、私たちの 身のまわりの問題にも役立つものであるはずです。はずなのだけれど実際には 多くの哲学書はちっとも役立っていない。いやいや著者に原稿料をもたらすと いう役には立っている。これは矛盾の一例ですね。

 身近な問題に丁寧に応じてくれる点では新興宗教の方が勝っている。宗教は 迷信であっても、宗教家の誤謬を真理と思い込んでいる頑迷な確信とそれを布教 しようとする献身的な熱意に感動してその教えを受け入れていく人が絶えな い。それにはそれだけの理由があるわけです。宗教のような間違った理論が 大いにはやる原因の一つは怠慢な哲学者にある。

 哲学は「世界の根本原理についての学問」だから、その研究の対象は現実の 社会や自然です。私たちは現実の世界の中で生活し、その生活を通してこの 世界についてのいろいろな知識や考え方を獲得していく。そうして得られた 知識や考え方は現実の世界から得られたものもだから、真理も誤謬も含めて、 やはり世界の根本原理に従っている。従って逆に、その知識の中身や考え方を 調べたりすれば、そこから世界の根本原理を引き出すことができる。これは もう立派に哲学していることになる。

 哲学がそういうものならば、それは誰にでも理解できるもののはずです。 はずなのだけれど、哲学のセンセイたちは哲学とはむずかしく分かりにくいも のだ、「哲学する」ということは日常の態度とは全く異なる、難しい本と取り 組み、厳しい研鑽を積み重ねた結果悟ることのできるものだ、などとおっしゃ る。
 高校生の頃、当時哲学の入門書として必読書と言われていた出隆の「哲学以前」 という本を、ごたぶんにもれず私も読んだ。さっぱり分からなかった。 その本の一節にこうある。「哲学の価値は所謂実用によって定められるもの ではない。用不用は真に哲学するものにとって問題ではない。」
 今から思えばこれも神ががり哲学だった。

 哲学には違った名前の幾種類もの哲学があり、数え切れないほどの流派 があり、それぞれにその難しさを競っているような観がある。
 しかし、数え切れないほどの哲学も表面上の違いだけで、突き詰めれば2種類 の哲学しかない。科学的な哲学と神ががり哲学。つまり唯物論的哲学と観念論 的哲学のふたつ。全ての哲学はこの二つの立場、唯物論と観念論のどれかに よって立っている。

 わたしたちは生活のうちに知らず知らず哲学的な見かたを身につけています。 これはありのままに世界を見ようとする科学的な哲学、正しい哲学の方向に 沿っているわけです。

 そこへ哲学の本をもってくる。その本には神がかり哲学が書いてある。読ん でいくとわたしたちが知らず知らず持っている正しい哲学の立場が、この神 がかり哲学を排斥する。どうも信じられないといった気もする。それをこれ が正しいものときめてムリヤリに信じようとする。だから苦しむし、努力が いるわけです。

 科学的な哲学と神がかり哲学とは決して両立しない。

 あちらを立てればこちらが立たない。自分の頭でその両立しないことがわ からなければ、日常の生活や行動は科学的な哲学を利用していて、学問の分 野だけを神がかり哲学にたよるという使いわけもできますが、神がかり哲学 で日常の生活まで解決しようとすると、現実のほうがいうことをきいてくれ ない。だから、学問の教えにあくまで忠実であろうとする人たち、その説を どこまでも実行しようとする人たちは、科学の立場と神がかり哲学の主張と のくいちがいにぶつかってなやむことになります。どちらをとるべきかが問 題になる。現実の教えにしたがうべきか、哲学の本の教えにしたがうべき か、どちらかに決めなければならない。

 昔からいうじゃありませんか、両方立てれば身が立たぬ、とね。世の中は 「不可解」だと、哲学にこった青年諸君が自殺するような結果にもなるので す。これは神がかりの哲学の罪ですが、たとえ科学的な哲学を勉強するので も、小学校の生徒に大学の教科書を渡して勝手に読めというような段階を無 視したやりかた、現実のなかから自分で理論をひきださせようとしない教え かたではむずかしくわかりにくいのがあたりまえでしょう。


 現実の中から理論を引き出すのが科学的哲学です。そして、「現実のなかか ら自分で理論を引き出すような教えかた」を根幹に置く教育が「課題提起型 教育」です。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/394-643e0691
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック