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578 唯物論哲学 対 観念論哲学(1)
観念論哲学と宗教は兄弟
2006年8月14日(月)


 「第570~571回 8月6日~7日」で天台智顗の一念三千という思想の解釈を めぐっての梅原さんの解説を引用したとき、梅原さんの考えに対して私には 本質的な異議があった。そのとき私は次のように書いた。

『私は「永遠の生命」という思想を肯定する梅原さんの考えには反対を 表明せざるを得ない。生命は物質と無関係なものとしたり、生命は死後も存在するとしたり 、さらには飛躍して自然=生命、宇宙=生命であるというような考えは、科学 的な認識論からすれば相対的誤謬に過ぎない。誤謬を思想の根幹にするわけ にはいかない。』

 このことをもう少し丁寧に再論してみたい。なお、上記文中で私の立場を 「科学的な認識論」としたが、正確に「唯物論的認識論」と言うべきだった。

 まず梅原さんは一念三千の思想を次のように読み解いた。

 地獄だの仏だのというものは、別にわれわれの心の外に実在しているもので はなく、われわれが心で感じる苦悩が地獄そのものであり、われわれが心で感 じる喜びが天そのものであり、しかも地獄の心を持つ人の心の中にもどこかに 仏の心、純粋慈悲の心があり、仏の心を持つ人の心の中にも煩悩をあらわす餓鬼 の心や、怒りをあらわす修羅の心があるというのである。

 私は一念三千の思想は仏教の生んだ偉大なる精神の研究であり、フロイドの精 神分析以上の偉大なる思想の萌芽をそこにみるのであるが、日蓮はここでは 唯人間ばかりか、山川草木も心があるというのである。


 地獄とか仏とかは「心の外に実在しているものではない」という認識は 至極真っ当な唯物論的認識である。そして仏教用語を日常的な言葉に言い換 えて、人は誰でも心の中に「苦悩、喜び、慈悲、煩悩、怒り」を併せ持ってい るといい、その人間理解を思想の根幹に据えるべきだと言っている。この点も 賛同できる解釈だ。しかし、この当たり前の認識をもって「偉大なる思想の萌芽」とまで 言うのは言いすぎだと私は思う。

 梅原さんが「偉大なる思想の萌芽」とまで言うのは、最後の日蓮の解釈とし て述べている「山川草木にも心がある」という解釈をも一念三千の解釈の中に 組み込んだ上でのことであり、その日蓮の解釈が正しいとするなば、 「偉大なる思想の崩芽」とまで言う理由は分かる。しかしその「山川草木にも心がある」 という日蓮の認識は、当然、現代の科学的な認識論では誤謬でしかない。

 上記引用文の後で梅原さんは次のように述べる。

 このように考えると日蓮の思想の眼目は普遍的にして永遠な生命論というと ころにあるように思われる。こうした普遍的にして永遠な生命とその生命への 慈愛こそ、たしかに日蓮が言うような大乗仏教の眼目であり、私は創価学会と ともにこの生命論を世界の思想を救済する可能性を持つ思想と思うのである。

①『地獄とか仏とかは心の外に実在しているものではない』→②『山川草木にも心が ある』→③『普遍的にして永遠な生命』。この一念三千の解釈の飛躍は、私は 典型的な観念論的踏み外しだと思う。
 ①でいう「心」は「観念の世界」と同義だ。だとすると②は『山川草木にも 観念の世界がある』となって、①の認識が拠ってたつ科学的な立場らかはまっ たく受け入れられない誤った認識となる。
 ②の「心」を①とは違う意味で「生命」と解釈すれば、②は『山川草木にも 命がある』となり、これならごく真っ当な認識ということになる。(「山川」も 命あるものとする点は今はおく。)
 しかし、この生命が③の『普遍的にして永遠な生命』となると、現実的な存在 と無関係に「永遠の生命」が宇宙に偏在していると言うのだから、これも またとんでもない観念論的踏み外しと言わなければならない。

 私は梅原さんからたくさんのことを教えられてきた。私がその発言を注目し ているお一人で、これからもその発言に耳傾け、そこからいろいろと学びた いと思っている。
 しかし、梅原さんの理論にはいつも根本のところで、上で縷々述べたような 疑義を持ってきた。その理由は梅原さんの思想の土台が観念論哲学だからだっ た。宗教と観念論哲学は紛れもなく兄弟である。その母体を共有している。 観念論哲学が必ず哲学と宗教の調和を図るのは当然の成り行きなのだ。 梅原さんは「近代科学の成果にも忠実」であろうとする立場をとっている (「第573回 8月9日」参照)が、観念論哲学が科学的な哲学ではないという 認識はまったくお持ちではないようだ。

 私は重箱の隅をほじくるようなつまらぬ議論をしてしまっただろうか。 いな、私は次のような問題意識を持ちながら書いている。
 これまで(「第534回 6月25日」以来)天理教、幸福の科学、統一教会、 オウム真理教、創価学会と5つの新興宗教の教義を調べてきたが、それらの教義の うちのバカ話はすべて観念論にその淵源がある。そのおおもとの観念論の批判 をしたい。それは同時に全宗教に対する批判でもある。つまりこれまでの個々の 宗派の批判に対して、宗教そのものの批判をすることになる。
 実は、観念論としての宗教の批判は「神が人間を創ったのではなく、人間が神を創ったのだ」 というマルクスの言葉で全て言い尽くされている。私が持った新たな課題は、 そのマルクスの認識が生まれてくる根源的な理論を詳しく学び直すことにある。 当然のこと、それは観念論哲学と宗教の批判ということになる。宗教批判の 総論と言う意味合いと同時に、シリーズ「認識論と矛盾論」の続編だと思っている。

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