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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
21. 「国家」について(2)
 2004年9月4日


 
 国家権力は、経済社会構成の上層に地位を占めるものがよりあつまってつくられるものではないから、社会的国家に公的権力が存在するのではない。社会的国家は、法によって政治的国家と二重化されるとき、はじめて権力をもち、普遍的な<階級>のもんだいがあらわれる。 (吉本隆明「自立の思想的拠点」所収「自立の思想的拠点」より)


 専門家には憫笑されそうなものだが、自分なりの国家観を素描してみる。

 現代の国民国家では、現実過程として利害を異にするさまざまな階層の間の抗争があり、その抗争を調停する第三の権力として国家権力は成立している。しかし、政府を担当する政党はその支持基盤の階層の利害を優先するから、社会的国家が行う諸事業はとても公平とは言えない。
 戦後一時期、労働者を支持基盤とする政党が政権を担当したことがあったが、ほとんどは資本家よりの政党(現自民党)の独裁だった言える。
 しかし、独裁とはいえ圧倒的多数を占める被支配階級の支持をも得られなければ、政権は維持できない。被支配階級にもおこばれ程度の恩恵は与える。それをありたがる者たちが、現政府をあたかも自分たちのための政府と錯覚し、独裁を支えている。
 しかし、おこぼれだけでは、民衆の支持は続かない。民衆に国家への服従の精神を植えつけねばならない。

 社会的国家のイニシアチブをとった政権政党とその支持階層は、抗争に勝ち続けるためには政治的国家としての権力を保持・強化し、その政治的国家権力をを最大限に利用して、すべての階層を支配しようとする。
 そのためには学校教育の支配とマスコミのの取り込みが最大重要課題となる。

 次の引用文(秋山清「反逆の信条」)が書かれたのは1970年前後だが、まだ賞味期限は切れていない。


 国家の経済的繁栄が、そのまま日本人民衆の繁栄であるかのような錯覚に満ちわたっている。 日本の民衆は、自分たちが民衆にすぎないということすら、自覚していないのだ。かくては、毎日の生活と生活環境への順応、治安の維持(支配のための)のための道徳と法律、その法律をつくるための議会、議会のための選挙、われわれの坐臥、二十四時間、三百六十五日、この国家という権力機構の操作の外に出ることはできない。繁栄といわれている現在ほど民衆の精神生活が、わが精神環境の外側に吸収されて飢餓に瀕したことはなく、逆に国家権力がこれほど安定していることもない。国家が民衆のものであるなどと、ぬけぬけとしたいい方があり、しかもなお民衆がそれを疑惑することすらできない。

 いわゆる経済的高度成長によってわれわれの国では、従順にはたらく者の生活は保証されているかのようであるが、これは現体制の枠内で、国家と法律による階級的現状に不信と反抗を表明しない者だけにとっての保証にすぎないのである。そこでは自由そのものも、自由のための思考すらよろこばれはしない。不信と拒否、否定から反逆へという自由の発展的方向を含む志向は、常に反社会的として締め出されつづけている。

 われわれは国家というものが、大衆の意志などとまるでまったく無関係な政府によって、政府をつくる政党によって、政府をバックアップする階級によって、資本家によって、官僚によって、あるいは地主らの総合的利益のためによって、つくられて運営されて、下級民衆にはそのための必要によってのみ支配の手が緩急されるという事実をあまりにも痛切に経験しつつある。(中略)

 国家、それは、社会主義を名乗ろうと王国であろうとデモクラシーの近代的国家であろうと、その国家と民衆との関係は、圧制者と権力にしいたげられる奴隷との対立であることにかわりはない、ということにつきる。



 ここで国家の問題を考えるときに、もう一つ大事な視点があることがわかる。



 わたしたちが認めうるのは、この世界には少数の支配と多数の被支配が現実を領しているということだけである。この課題が「社会主義」国家同盟と「資本主義」国家同盟の対立、矛盾という概念によっては救抜されないということだけはあきらかである。 (吉本隆明「模写と鏡」より)


 この文が書かれたのは1963年。しかしこの文にも賞味期限はない。

 現在は「社会主義」国家同盟と「資本主義」国家同盟の対立にかわって、「ならず者国家」と「自由主義国家」の対立が流布されている。これは多分にブッシュが一方的に描いた構図に過ぎないのが、この場合も「わたしたちが認めうるのは、この世界には少数の支配と多数の被支配が現実を領しているということだけである。」

1. 国家本質を「政治的国家」と「社会的国家」の二重性として捉える視点
2. 国家と国家の対立などなく、少数の支配者と多数の被支配者の対立があるばかりだと、国際情勢を捉える視点、
 この二視点を通して時代の情況を眺めるようになってから、私はとても深く遠くま見通せるようになったし、大きく見誤ることはなかったと思う。進歩的革新的を自称する多くの人が陥った陥穽には無縁だった。「ソ連」や「北朝鮮」を労働者・被抑圧者の味方の国などと思ったことなど一度もない。
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