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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
141. 『「非国民」手帖』を読む(29)
赤き烙印を受けた者たちへ
2005年1月2日(日)


俎上の鯉:いわゆる《大衆》すなわち私たちだ
料理人 :歪
料理記録日:04年4月号


 「なにしに生れてきたと問はるれば/躊躇なく答へよう。反対しにと」とうたった漂泊の詩人。 間違いなくその胸には《反対》の赤き烙印が押されていた。
 同様に赤い烙印を受けた者たちが、叫びを呑み込んだまま、互いを血族とも気づかずすれ違 いながら、彷徨している。ほら。疼きのなかで赤い文字が浮かび上がってくるのを感じないかい。
 そう。テーマはいつも《権力》をどうぷっ叩くかだ。
 攻撃力は、憎悪の深さとパンチを繰り出すリズム感が左右する。
 で、問題は結局《権力》って何だよ、ということに帰結する。
権力者と支配される無垢な大衆という三流《左翼》的な図式。あるいは、投票で選ばれた市 民の代表が政治を司るという能天気な《民主》的図式。こうした平面的な《権力》観とは訣別 しなければならない。
 下から権力が組織される上向の過程と、上から《権力》が支配する下向の過程を、統合 的に把握する必要がある。実体としての敵を求めるのは安易な方途だが、媒介的な関係として しか《権力》は存在していない。
 したがって。批判の対象としては常に回避され、隠蔽されているもの、ここまで射程を有さ なければ《権力》には届かないのだ。それは《権力》を支え、それにすりよることで、暗鬱な 欲望を満たそうとするものたち、つまり《大衆》だ。
 おまえの《敵》はおまえだ。だから、わたしの《敵》はわたしだ。坊主懺悔としてではなく、 外部と内部の《敵》を同時に撃つために、《闘争》は言語による批評という形態を必然的に招来 する。そして言語の《闘争》は《政治》の枠を超えて、《文化》へと拡大し、生活の中で全面化 する。
 赤き刻印を負った者たちよ、《闘争》は可視に、不可視にすぐそこで展開している。
 この《闘争》は永遠だ。何も終わってはいない。終わらせるためには、はじめなければなら ない。
何のためにか、つて。叫びを解き放つために、だよ。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
おまえの《敵》はおまえだ。だから、わたしの《敵》はわたしだ。外部と内部の《敵》を同時に 撃つために、《闘争》は言語による批評という形態を必然的に招来 する。そして言語の《闘争》は《政治》の枠を超えて、《文化》へと拡大し、生活の中で全面化 する。

  「121回」(12月13日)で書いたものを再録する。

 『日常の生活とは国家意思の反映であり、規範意識の馴致過程の謂いである。「空虚な泰平に埋没する」 とはその日常になんらのささくれだちも感じなくなることである。それは支配権力への服従へ 通じるネットワークに絡めとられたことを意味する。そして、日常生活において感じるささくれだちを 掘り下げていく営為を「懐疑の精神」と言っていると思う。』

 「下から権力が組織される上向の過程」とは規範意識に馴致された大衆の日常生活が権力を支える過程 であり、 「上から《権力》が支配する下向の過程」とは国家意思が日常の生活に浸透してくる過程である。
 したがって、日常生活の中で全面化されるような言語による闘いとは、日常の生活で法や規範や四角な しきたりを強いられたり、それに抗ったりするときに「感じるささくれだちを掘り下げていく営為」 にほかならない。
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