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18. 私が穿ってきたささやかな孔---授業編
 2004年9月1日


 私の教師生活は、始めの十数年は無自覚な銀行員教師のノホホン世界であり、その後は銀行員教師から抜け出ようと悪戦苦闘する冷や汗生活だった。そして結局は、情けないけど、自覚しながらも中途半端な半銀行員教師で終わったといったところだろうか。
 後半分は、銀行型教育からの脱却という方向性をもって言ったりやったりしてきたので、たいていの問題で銀行員教師とのぶつかり合いになった。成果はあんまりなく、いつも「ごく少数派」ときには「ひとり派」だった。
 他者に受け入れられないのは過激にすぎたためだろうか。最後の赴任校では、いくぶん親しみと揶揄を込めてのレッテルだと思うが、私のことを「中年過激派」と呼んでいる人がいた。

 教師時代、私は自分がやっていることを、たびたび同僚たちに公開(いわゆる実践報告)してきた。あえて恥をさらすのは、一人でも同行者が得られればと願えばこそなのだが、あるとき「自慢したがっている。」という評をされ、がっかりしたことがある。自慢するほどのものではないことを、本人が一番よく知っているいるのにね。
  そんな実績?をもった代物だけど、何らかの参考にでもなればと、再び恥をかくことにした。退職時にまとめた文に加筆訂正を加えて掲載する。
 

 教師になって2年目、初めて担任をしたクラスで生徒を一人亡くした。大変なショックだった。そして自問した。この生徒にとって私の授業は何だったのだろうか。
 ごたぶんにもれず私には学校や授業については深く考えたこともなく、私の授業はなによりもまずよりよい進学やよりよい就職のためのものだった。だとすると、進学や就職の機会を持たなかったこの生徒にとって私の授業は無駄なものだったといえないか。授業はこの生徒にも意義があるようなものでなくてはいけないのではないか。

 教師になって11年目、都会から離れたくなって、三宅島の高校に転勤した。島で唯一の高校だから、中学卒業生のほとんど全員が入学してくる。中には分数の計算ができない生徒がいた。九九が全部言えない生徒がいた。ときには繰り上がり繰り下がりの足し算引き算ができない生徒もいた。
 選別された生徒を相手に上手にやってきたつもりの私の授業は、この生徒たちには通用しなかった。一体この生徒たちにとって私の授業は何だったのだろうか。

 学校教育にかかわることを考えるとき、私はいつもこの二つの体験を反芻する。授業についても、この生徒たちにとっても意義のあるような授業を目指して工夫してきた。



授業書(授業用自作テキスト)

 三宅高校でぶつかった壁が越えられず数年悶々とした日々を送った。その頃、パウロ・フレイレの著書と出会い、自分が銀行員教師に過ぎないことを自覚した。そして同時に目指すべき方向を学んだ。

 同じ頃、フレイレとの出会いに続いて、救いの手が、見計らったように、重ねて差し伸べられてきた。
 学校宛てに数学教育協議会(以下、数教協と略称)夏期大会の案内書が送られてきた。数教協の学校宛の案内は後にも先にもこれっきりだったから、まるで誰かが私のために手を差し伸べてくれたみたいだ。研究発表の題目を見ただけで、おれが求めていたものはこれだ、と直観した。その種の研究会についぞ出たことのない私が飛んでいった。
 そこにまたうれしい偶然が待っていた。

 まだ新米教師の頃、官製の数学教育研究会の下働きに狩り出された事がある。官製の研究会では文部省や都からの役人や校長などの所謂お偉方は別待遇で、もちろん部屋は別にあつらえられる。発表される研究内容も銀行型教育の枠内にとどまり、何の新味も無くつまらない。それ以来、一度も参加したことがない。

 数教協が官製のお仕着せ研究会と違うすごい点の一つは、すべての幹部・役員を含めて、部屋割りは申し込み順なのだ。なんと、私は故・遠山啓委員長と同室だった。遠山先生の部屋にはつわものたちがたくさん出入りして、ほとんど徹夜で示唆に富むお話を伺った。
 「その教室の中で最もできない生徒にとって楽しい授業は、もっともできる生徒にとっても本質的なよい授業である。」と遠山さんはいう。障害者教育の実践を通して得た見識である。これも授業作りをするときの大事な指針となった。

 研究発表の内容も官製のそれとはまるで質が違う。数教協で発表される研究内容は銀行型教育のその枠を大きくはみ出でいる。
 数教協では、具体物(現実の世界)と抽象物(数学の世界)を仲立ちをする半具体物(教具・教材)を「シェーマ」と呼んでいる。数教協の諸実践の中で特にこのシェーマの研究に私はびっくりした。抽象度の高い高校の数学でも有効な教具が可能なのだ。

 課題提起教育というとすぐに思い出すのは理科の仮説実験授業だが、その大会でその授業にも出会った。仮説実験授業もすごい。誰がどこでやってもよい授業になるような「授業書」と呼ばれる授業用プリント教材が開発されている。

 チョークだけを持って教室に臨んでいた私の授業が一変した。
 私は仮説実験授業の授業書をまねて、すべての授業をプリントでやることにした。ほんの真似事に過ぎないが、やはり「授業書」と呼ぶことにした。できるだけ黒板を使わないための方便でもあり、教師のほうを見る暇もないほどせっせと黒板を写す苦行から生徒を解放する意味もある。
 授業書には、導入部分や最後のまとめの問題で、できるだけ現実の世界に関連したものを取り入れた。数学の歴史の話も盛り込んだ。また、不器用な私にも簡単に作れるような教具はそれを用意した。これらは数教協の研究成果を大いに利用した。
 授業の最後には必ず授業についての感想文を、生徒全員に書いてもらい、授業書の改良に資した。
 よくテストのときに感想文を要求する教師がいるが、あれはダメだ。役に立つ感想文を書いてもらうには、無記名で、十分な時間を与えなければいけない。

 さて、授業書による授業を生徒はどう受け止めたか。授業の評価は生徒にしてもらうにしくはない。

 「とてもよい授業方法だと思った。ただ問題の解説だけをし、それをノートに写すだけという予備校のような授業方法が多い昨今、ノートを取るという作業から解放し、プリント形式にして書き込みながら理解し、そして演習し、それから教科書の問題を解く。こういう流れは作業というよりも学習という授業本来のあり方の一つではないかと思う。」

 「先生の授業は数学の苦手な人、嫌いな人にとっては大いに感激すべきものだったと思う。結局先生はできる人のための授業よりも、できない人のための授業を中心にしてくれていたと思う。とっても面白く役に立つ授業でした。先生の授業がいつまでもできる人よりできない人のためにあってほしいと願っています。」

 「はっきり言って最初はびっくりしました。一番最初の授業が足の水虫の問題から始まったからです。でもこのようなみんなの気を引くような問題文になっていたのでとてもやりやすかったです。1週間に5時間も数学の授業があるなんて、と思ったけれど、授業中に笑いがあったので、とても楽しかったです。」

 「問題の文も楽しくて印象深かったです。あと、問題ではなくて、歴史と言うか読み物的な文章が好きでした。」

 「他のクラスの子の話を聞いたりすると、なぜこうなるのかがわからない(例えばlogとかは解き方はわかるけど一体なんなのか?)という人がよくいるけど、そういうことも、実際日常のことなどをつかって教えてもらったのですんなりと理解できて本当に良かった。」
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