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17. 課題提起型教育
 2004年8月31日


 「銀行型教育」が排除し、疎外しようとしているものを知れば、どんな教育が「よい教育」なのか、自ずと見えてくるだろう。前回の引用で下線を付した部分を再度抜き出してみる。

 「より豊かな人間になるという存在論的使命」
 「世界の変革者として世界に介在することから生まれるかれらの批判意識」
 「批判能力を喚起し、現実についての断片的見解には満足せず、点と点、問題と問題を相互につなぐ絆をつねに探究しょうとする教育」

 教育の目的は、「国家・社会の従順な成員」の育成ではなく、教師と生徒がともどもに、より豊かな人間になることである。
 そのための教育方針は、出来るだけ多く貯金を蓄えることではなく、世界の変革者として世界に介在するため批判能力を涵養することである。
 そしてその教育方法は、現実についての断片的見解や事実の一方的伝達ではなく、点と点、問題と問題を相互につなぐ絆を、 教師と生徒との対話によって探究していくようなものでなければならない。


 このような「銀行型教育」と対立する教育を、フレイレは「課題提起教育」と呼んでいる。
 「銀行型教育」と「課題提起教育」とを対比しながら、「課題提起教育」の本質を浮かび上がらせている部分を引用する。


 銀行型概念は、何もかも二分する傾向をもっているが、教育者の行動についても二段階に区別する。第一段階では、かれは自分の研究室や実験室で授業の準備をしながら、認識対象を認識する。第二段階では、その対象を生徒に逐一説明する。生徒はそれを知ることを求められるのではなく、教師によって一方的に語りかけられる内容を暗記することを要求される。生徒は認識行為といえるようなことは、何ひとつ行ってはいない。なぜなら、その行為が向けられるべき対象は、教師の私有物であって、教師と生徒の両方に批判的省察をうながす媒体ではないからである。
だから私たちは、文化と知識の保存の名目のもとに、実は私たちが真の知識にも文化にも到達できないシステムをもっているということになる。
 課題提起の方法は、教師-生徒の活動を二分することはない。つまり、かれがある時点では認識し、別の時点では一方的に語りかけるということはない。教育計画を準備していようと生徒との対話に取り組んでいようと、かれはつねに認識している。
 かれは認識対象を自分の私有物とはみなさないで、自分自身と生徒による省察の対象と考えるのである。

 課題提起型教育者の任務は、臆見doxaのレヴェルにある知識が、理性logos のレヴェルにある真の知識によってとってかえられるための条件を、生徒とともに創造することにある。銀行型教育が創造力を麻痺させ抑制するのにたいして、課題提起教育は現実のヴェ-ルをたえずはぎとるはたらきをもっている。

 銀行型教育は意識を埋没状態におこうとし、課題提起教育は意識の出現と現実への批判的介在に向かって努力する。

 自由の実践としての教育は、支配の実践としての教育とは反対に、人間が抽象的存在で、世界から孤立し、独立し、切り離されているという考えを認めない。それはまた、世界が人間とはかけ離れた実在であるという考えも拒否する。
 真の省察が認めるのは、抽象的人間や人間不在の世界ではなく、世界との関係にある人間だけである。この関係のなかで、意識と世界は同時に存在する。意識は世界に先行するのでもなければ、そのあとにしたがうものでもない。
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