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93. 滝村隆一の国家論
2004年11月15日

   私は国家に関わる文を書いているとき、「支配階級、被支配階級、抑圧者、被抑圧者、支配層、 被支配層、国家権力などなど」の中からどの言葉を使うの が適しているのか、迷うことが多々ある。それぞれの文脈に応じて一応は考えて選んでいるつも りではいるが、その選択の基準はそれほど明確ではなくかなり直感的である。 わたくしにとって一つの課題であった。
 しっかりとした選択の基準をもたないのは、「支配階級、被支配階級、抑圧者、被抑圧者、支配層、 被支配層、国家権力などなど」が、現実の政治過程でどのような相互関係にあり、どのように抗争したり共闘 したりして国家意志が形成されてい くのか、という問題についての理解が曖昧なためであろう。今回のテーマにはその課題を果たす目的 もある。

 滝村隆一著「国家論をめぐる論戦」(勁草書房)に「国家の本質と〈階級独裁〉」という一節が ある。今回のテーマにぴったりの内容なのでそれを要約する。が、まずは以前に取り上げた 吉本隆明氏の「国家の本質」についての言説の復習から。

 『国家の本質は共同的な幻想である。この共同的な幻想は、政治的国家と 社会的国家の二重性(二面性ではない)の錯合した構造としてあらわれる。』

 『国家権力は、経済社会構成の上層に地位を占めるものがよりあつまっ てつくられるものではないから、社会的国家に公的権力が存在するのではない 。社会的国家は、法によって政治的国家と二重化されるとき、はじめ て権力をもち、普遍的な<階級>のもんだいがあらわれる。』

 「国家権力=支配的階級(経済社会構成の上層に地位を占めるもの)の権力」 (これは俗流マルクス主義の国家観)ではないと言っている。
 では国家権力とは何なのか。また「政治的国家と社会的国家の二重性の錯合した構造」 とはどのようなものか。それらの問題が少しでも解ければと思う。

(以下は「国家論をめぐる論戦」所収「国家の 本質と〈階級独裁〉」の要約)

 まず論考を進める上での歴史的・現実的前提がある。「〈近代的〉市民社会」=「統ー的 な階級社会」の形成がそれである。
 その形成を待って初めて国民的な統一社会が支配階級(ブルジョアジー)と被支配階級(プロレタリ アート)の二大階級を軸とした諸階級・諸階層へと分裂する。その結果必然的に、諸階級・諸階層の 〈特殊利害〉と統一社会的な〈国民的共通利害〉との構造的分裂が起こる。

 支配階級と被支配階級は、その現実的な社会的・経済的利害や、観念的な(共同幻想上の) 政治的利害にもとづく独自の意志・要求を、それぞれ階級意志として押し出すことによって、 不断の対立と抗争を展開する。その対立・抗争は統一社会そのものを衰退や解体に追い込む 危機を孕んでいる。
 そこで、社会全体の「一般的共通利害」の立場から、統一社会を防護するための強力で組織 的な実践的制御と干渉を行う権力が社会的に不可欠なものとして必要となる。これも 完成された統一的な階級社会を現実的前提とする限り、必然的な成り行きといえる。

 従って、「一般的共通利害」の立場から、諸階級へと分裂した社会全体の秩序維持のため、 形式上は二大階級〈権力〉の上に立った〈第三権力〉が成立する。 これが国家権力である。すなわち国家権力は、 支配階級・被支配階級の如何を問わず、社会の全構成員に対して法的規範としての 〈国家意志〉への服従を強制する形態をとって成立する。

  しかし、国家権力は形式上は第三権力という形態をとっているが、その実際の社会的 ・階級的性格はどうなのか。実際には支配階級の階級意志=総資本的意志の支配下に置か れているではないか。

まず、支配階級(ブルジョアジー)の階級意志=総資本的意志はどのように形成されるのか、検討する。

   ブルジョアジーは、日頃は〝産業の自由″の名の下に不断の相互的対立と抗争をくり返してい る。だがこの自由競争は、競争の必然の結果として産業上の覇権と集中化をもたらす。 さらに、プロレタリアートの階級的結集・全国的組織化に対して対抗し闘争する必要からも、 国民的ないし統一社会的レヴェルでの資本の有機的な連合と中央集権的な統一的組織化が 必然となる。
 従って総資本的意志は、このようなブルジョアジー全体の階級的結集と中央集権的組織化にも とづいて形成されたものである。しかもそれは、資本制的生産様式全体に関わるもの として市民社会全体に関わり、この意味で直接に〈政治的性格〉が付随している。
 しかしブルジョアジーは、現実的にはあくまで個々の資本家として、 傘下の企業労働者を経済的に支配できるだけである。総資本的意志を、 プロレタリアートはじめ国民的諸階級・諸階層の全体に直接押しつけ、服従させることはできない。 それをなすためには、総資本的意志を特殊に、社会全体の秩序維持に任ずる法的規範としての国家 意志にまで、転成させねばならないのである。

 その転成はどのようにして行われるのか。

 一つは、国家は社会的国家として、各種公共土木事業や文教・福祉・医療等に関わる 社会的・経済的政策を〈国民的共通利害〉=「一般的共通利害」の履行として打ち出してくる。
 しかし上述のように、第三権力という形態をとった国家権力による社会全体の法的秩序維持は、 全社会的規模における階級分裂と階級社会の形成の結果として 必然化されたものであるから、社会的・経済的政策の実質的な遂行は、たてまえとしては第三権 力による大きな政治的指揮・統制の下で行われるとしても、実際には個々の民間企業(ブルジョア ジー)に委託する他はない。つまり、〈国民的共通利害〉=「一般的共通利害」 である社会的・経済的政策が実質的にはブルジョアジーの階級的特殊利害によって支配され、主導 されることになる。

 二つに支配階級は、支配階級を中心とした諸階級・諸階層の〈特殊利害〉を「国民的共通利害」= 「一般的共通利害」と仮構・僭称して強力に押し出し、被支配階級の相当な部分を取り込みな がら、その総資本的意志を国家意志のなかに大きく反映させ、貫徹させていく。そして、〈政治的 (共同幻想的)〉と〈社会的・経済的〉の如何にかかららず、 支配階級を中心とした諸階級・階層の〈特殊利害〉が一般的諸法として、 あるいはそれを直接の法制的前提として展開される〈政策〉の形態をとった国家意志として現実化さ れる。
 これは、ブルジョアジ一による階級支配が、政治的国家においても貫徹されるを意味している。

 このように、ブルジョアジ一による国家的支配(つまりブルジョア独裁)とは、その総資本的意志が 国家意志を実質上大きく支配することである。また、ブルジョアジーはそのことによっ てはじめて、経済的支配階級としての自己を、政治的な統治階級としても構成することができるので ある。
 これは、支配階級が、総資本的意志をプロレタリアートはじめ国民的諸階級・諸階層の全体 に直接押しつけ、服従させることが出来るようになったことを意味する。
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