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569 「創価学会」とは何か。(10)
「生命論」批判(2)法華経・寿量品
2006年8月4日(金)


 日蓮の教義に深入りするつもりはないのだけれども、創価学会の生命論批判 のために必要な最小限の知識を仕入れておくことにする。

 手元に岩波日本古典文学大系の「親鸞集 日蓮集」がある。日蓮集の中の 「開目抄」を読んで…いや、とてもまともに読む気はしない。日蓮による 法華経解釈の根幹と思われる部分を拾い読みした。

『この経に二十の大事あり。(中略)一念三千の法門は、ただ、法華経の本門、 寿量品の文の底にしづめたり。竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)知て、 しかもいまだひろいいださず、ただ、我が天台智者のみこれをいだけり。』

 竜樹と天親はインドの大学僧で、天台智者とはもちろん前回登場の智顗のこ と。寿量品に隠されていた重要な教義「一念三千」を智顗だけが見出している という。

『ここに、予、愚見をもて、前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、その 相違多しといえども、先ず世間の学者もゆるし、我が身にも、さもやとうちを ぼうる事は、二乗作仏(にじょうさぶつ)・久遠実成(くをんじつじょう)な るべし』

 前回解説した「五時八教」でのシャカの人生50年の五区分を、法華経に割り 当てた最後の8年と、それ以外の経典に割り当てた先の42年に分けて「前四十余年 と後八年」と言っている。法華経が他の経典と違って優れている点は「二乗作仏」と 「久遠実成」という教義2点のゆえだと言っている。

 どうやら日蓮は法華経の中の「寿量品」を重視している。また日蓮による法華経解釈の キーワードは「一念三千」「二乗作仏」「久遠実成」の三点のようだ。この三点は 法華経の優れていることを説く場面で繰り返し繰り返し出てくる。
 「寿量品」重視のことと三つのキーワードについては、梅原さんの解説に頼ること にする。

 が、その前に「寿量品」を読んでおくことにする。(気まぐれの思い付きで す。煩わしければ飛ばして下さい。)
 筑摩の世界古典文学全集の「仏典Ⅱ」の口語訳の法華経から、「寿量品」を 全文掲載することにした。長いですが、興味のある人は読んで みて下さい。有名な「名医のたとえ話」が含まれています。

妙法蓮華経 如来寿量品第十六 (紀野一義訳)

 そのときに、仏はもろもろの菩薩および一切の大衆に告げられた――
 「立派な若者たちよ、おまえたちは如来のまことのことばを信頼しなさ い」と。
 二たび、三たび、仏は「おまえたちは如来のまことのことばを信頼し なさい」と告げられた。
 そのとき、弥勒を上席とする菩薩の大衆は合掌して仏に向かってこう 言った ――
 「世尊よ、願わくはこれを説きたまえ。われらは仏のことばを信受する でありましょう」と。
 このようにして三たび言って、さらにまた言った――
 「願わくはこれを説きたまえ。われらは仏のことばを信受するでありま しょう」と。

 そのとき、世尊は、もろもろの菩薩が三たび請うて止めないのを知っ て、かれらにこう告げられた――
 「おまえたち、あきらかに如来に秘密な神通力あることを聴け。一切の 世間の天人・人間・アシュラは皆、今の釈迦如来は、釈迦族の都を出て 伽耶城を去ること遠からぬ道場に坐って、この上ない正しいさとりを得 たと思っている。しかるに、立派な若者たちよ、わたしが仏となって以 来、実に無量無辺百千万億ナユタ劫である。
 たとえば、五百千万億ナユタ無数の三千大千世界を、人あって磨り潰 して微塵となして、東方五百千万億ナユタ無数の国を過ぎて一塵を投下 し、このようにして東に進んでこの微塵が全部なくなったとしよう。立 派な若者たちよ、どう思うか、このもろもろの世界は考えたり計算した りしてその数を知ることができるであろうか」と。

 弥勒菩薩は菩薩たちとともに仏に向かってこう答えた――
 「世尊よ、このもろもろの世界は無量無辺であって、算数によって知る  ことはできません。また、心力の及ぶところではありません。一切の声 聞や独覚が汚れのない智慧で考えても、その数を限定することはできま  せん。われらは不退転の境地に住しておりますが、このことについては どうしようもありません。世尊よ、このようなもろもろの世界は無量無 辺であります」と。

 そのときに仏は菩薩たちにこう告げられた――
 「立派な若者たちよ、今はっきりとおまえたちに語ろう。このもろもろ の世界、微塵を投下した世界も投下しなかった世界もことごとく塵にし て、その一塵を一劫としたとしよう。わたしが仏になって以来経過した ところは、その劫よりもさらに過ぎること無数百千万億ナユタ劫である それ以来ずっと、わたしは常にこの裟婆世界にあって教えを説き、教化 しているのだ。また、よその無数百千万億ナユタの国においても生ける 者たちを指導しているのだ。立派な若者たちよ、この中間においてわた しは、燃燈仏などのことを説いた。またそれらの仏が永遠の平安に入っ たことも説いた。これらは皆、方便によってそう説いたのだ。

 立派な若者たちよ、もし生ける者たちがあってわたしのところにやっ て来たときには、わたしは仏の眼によってその信の深さや機根の利鈍を 観察して、相手に応じて、処々において、違った名前、違った年齢の仏 として現われ、また世を去り、種々の方便によって微妙な教えを説いて、 生ける者たちに歓喜の心をおこさせたのだ。

 立派な若者たちよ、如来はもろもろの生ける者たちの中で卑小な教え をねがっている福徳の薄い汚れの多い者を見たときは、この人のために、 『わたしは若くて出家し、この上ない正しいさとりを得た』と説いて来 た。しかるに、わたしは実に、仏となって以来久遠であることこのよう である。ただ方便によって生ける者たちを教化して仏道に入らせようと してこのように説いたのだ。

 立派な若者たちよ、如来が経典を説くのは、皆、生ける者たちをさと らせ救うためである。あるいは自己について語り、あるいは他者につい て語り、あるいは自己の存在する条件について語り、あるいは他者の存 在する条件について語ったりする。その語るところは皆、真実であって 虚妄(こもう)ではないのだ。それはなぜかというと、如来はありのま まに三界の相を知見しているからである。如来は、三界が生ずることも なく、滅することもなく、消滅することも出現することもなく、有でも なく無でもなく、実在でもなく非実在でもなく、如でもなく異でもない ことを知見し、凡夫が三界を見るようには三界を見ず、これらのことを あやまりなく明らかに見るのである。もろもろの生ける者たちには、種 々の性、種々の欲、種々の行、種々の思いや分別があるので、かれらに もろもろの善根を生ぜしめようとして、種々の因縁や喩えやことばによっ てさまざまに教えを説くのだ。如来は、如来としてなすべきことを未だ かつて少しのあいだも休まずにやって来たのだ。このように、わたしが 仏になって以来久遠であることこのようである。寿命は無量無数劫のあ いだ常住であり不滅である。わたしが昔菩薩の道を実行して完成した寿 命は、今日なお尽きることがなく、その限度に至るまでにはなお、今ま での二倍の年数があるはずである。

 しかるに、今、わたしは、真実に世を去るのではないけれども、世を 去ると言い出したのはなぜであるか。それは、如来はこの方便によって 生ける者たちを教化しょうとするのである。それはなぜかというと、も し仏が久しくこの世に住していたら、福徳の薄い人は善根を植えず、貧 窮し、下賎であって、五欲を貪り執着し、妄想邪見の網の中に陥るであ ろう。もし如来が常に存在していて滅することがないと知ったら、驕慢 な、自分勝手な考えをおこして、厭い怠けるこころを懐き、如来に通い がたいというおもい、如来を恭敬する心を生ずることができなくなる。 それ故に、如来は方便によって、諸仏の世に出られるのに遇うことは難 しいと説くのだ。それはなぜかというと、もろもろの福徳薄き人は、無 量百千万億劫を過ぎて、あるいは仏を見る者もあり、あるいは仏を見な い者もあるからである。

 それ故にわたしは、『もろもろの比丘よ、如来を見ることは難しい と言うのだ。この生ける者たちは、このことばを聞けば、必ず、如来を 見ることは難しいと思うようになり、心に恋慕を懐き、仏にあうことを 渇望して、善根を植えるようになるのだ。それ故に如来は、実には滅す ることはないけれども、しかも世を去ると言うのである。

 立派な若者たちよ、諸仏如来の教えは皆このようである。生ける者たち を救うためで あるから、皆、真実であり、虚妄ではないのだ。
 たとえば、ここに医師があるとしよう。智慧あり聡明であって、薬を  処方するにすぐれ、よく一切の病を治すとしよう。その人に多くの子が  あったとしよう。十人、二十人、ないし百数十人あったとしよう。この  医師がある用事で遠く他国に行ったとしよう。そのあとでこの子らは毒  薬を飲み、毒にあてられて悶え苦しみ、大地に投げ出されているとしよう。  このとき、その父が帰国して家に帰って来た。子らは毒を飲んで、あ  る者は本心を失い、ある者は未だ失わないでいたが、はるかにその父を  見て、皆大いに歓喜し、礼をしてこう言った――

 『父よ、よく安穏に帰って来られました。われらは愚かにも誤って毒薬  を飲んでしまいました。願わくはわれらを治療して救いたまえ。われら  に命を与えたまえ』と。
 父は、子らがこのように苦悩しているのを見て、もろもろの処方によ  って、色も香りも味もことごとく具わったよき薬草を求めて、磨り潰し、  まぜ合わせて、子に与え飲まそうとしてこう言った――
 『このすぐれた薬は色も香りも味もことごとく具わっている。この薬を  おまえたちは飲みなさい。すぐに苦悩は除かれ、病はなくなるであろ  う』と。
 子らの中で本心を失っていない者は、このすぐれた薬の色も香りもと もによいのを見てこれを飲み、病はことごとく除かれ癒えた。その他の、 本心を失った者たちは、父が来たのを見て歓喜し、どうしたら病が治る  かと問い求めたけれども、しかも、与えられた薬を飲もうとはしない。 それはなぜかというと、毒に深くあてられて本心を失っているので、こ  のよき色あり香りある薬をよからぬ薬と思ったからである。
 そのとき、父はこう思った――
 『この子らはあわれである。毒にあてられて、心が皆、転倒している。 わたしを見て、喜んで救けを求めたけれども、しかも、このようなよい 薬をあえて飲もうとしないのだ。わたしは今、方便を設けてこの薬を飲 ませよう』と。
 そこで父はこう言った――
 『わたしは年老い老衰した。死ぬ時が近くまでやって来た。このよい薬 をここに置いておく。おまえたちはこれを飲むように。病が治らぬと憂 えたりすることはないのだ』と。
 こう教えておいて他国に行き、使を遣わして、『おまえたちの父は死 んだ』と言わしめた。
 このとき、子らは父が死んだと聞いて、心に大いに憂い悩み、こう思  った――
 『もし、父がこの世にいられたら、われらをあわれんでよく救い護って 下さるであろう。ところが今、われらを捨てて遠く他国で亡くなられた。 今やわれらは孤独であって、頼りとする者がないのだ』と。  ときにかれらは常に悲感を懐いて、心ついに目醒め、この薬の色も香 りも味もよいことを知って、これを飲み、毒の病は皆癒える。そのとき に父は、子らがことごとく病を癒やすことができたと聞いて、ふたたび 帰り来たって、すべての子らに見(まみ)えたというようなものである。  立派な若者たちよ、どう思うか。このすぐれた医師のしたことは虚妄 の罪になるであろうかどうであろうか」
「世尊よ、そうではありません」

 仏は言われた――
 「わたしもまたそのようである。仏になって以来、無量無辺無数百千万 億ナユタ劫である。生ける者たちのための故に、方便力によって世を去 ると言うのである。わたしのしたことが虚妄の罪になると言う者はない であろう」と。

 そのときに世尊は重ねてこの意味を明らかにしようとしてこれらの詩 を説かれた――

1
 わたしが仏になって以来経過した劫の数は無量無数百千万億劫である。
2
 常に教えを説いて無数億の生ける者たちを教化して仏道に入らしめた。そ れより以来無量劫である。
3
 生ける者たちを救うために方便によって世を去ると語ったけれども、しかも 真実には世を去ることなく、常にここにあって教えを説いている。
4
 わたしは常にここに在るけれども、もろもろの神通力によって、心の顛倒 した者たちの眼には、近くにあっても見えないようにしてあるのだ。
5
 わたしが世を去ったのを見て、生ける者たちは広くわたしの遺骨を供養し、 ことごとく皆、恋慕の心を懐き、あいたいという渇望の心を生ずる。
6
 生ける者たちの心が信伏し、素直であって、こころが柔軟になり、一心に 仏を見たいと願って体も心も惜しまぬときは、わたしと比丘たちとは、とも に耆闍聞崛山(ぎしゃくつせん)に姿をあらわすであろう。
7
 そして、生ける者たちにこう語るであろう――わたしは常にここに在って、 世を去るということはなく、方便力によって、世を去ることを示したり、生 まれることを示したりする。
8
 他の国土の生ける者たちの中に恭敬し、信ずる者があれば、わたしはかれら の中においてもこの上ない教えを説くのだ、と。おまえたちはこのことを聞か ず、ただわたしが世を去ったとばかり思いこむのだ。
9
 わたしがもろもろの生ける者たちを見るのに、苦しみの海に沈みこんでいる。 それ故に、身を現わすことなく、かれらに渇望する心をおこさせるのだ。その 心に恋慕して切に会いたいと思うとき、姿をあらわして教えを説くのだ。
10
 わたしの神通力はこのようである。無数劫のあいだ、常に耆闍聞崛山および その他のもろもろの場所に在る。
11
 生ける者の劫が尽き、大いなる火に焼かれるときにも、わたしのこの国土は 安穏であって、天人が常に充満している。
12
 園林や、もろもろの堂閣は、種々の宝によって美しく飾られ、宝石の樹、 宝石の花菓多く、生ける者たちの遊楽するところである。
13
 もろもろの天人は天鼓を打って、常にもろもろの伎楽をなし、マーンダーラ ヴァ花を雨降らして、仏と大衆の上に散ずる。
14
 わたしの浄土は常住であるのに、しかも生ける者たちは焼け尽きて、憂いや 怖れ、もろもろの苦悩はことごとく充満していると見る。
15
 このもろもろの罪の者たちは、悪業の因縁によって、無数劫を過ぎても、仏 法僧の三宝の名を聞かないのだ。
16
 もろもろのあらゆる功徳を修めて、柔和であり、素直である者は、わが身が ここにあって教えを説いているのを見るのだ。
17
 あるときはこの人々のために、仏の命の量は無量であると説き、あるときは、 わたしの命は久遠であるけれども、仏に会いたいと切望する者には如来に会う ことは難しいと説くのだ。
18
 わたしの智力はこのようである。智慧の光照らすこと無量であり、寿命は無 数劫である。久しいあいだ善業を修して得たところなのだ。
19
 おまえたち、智慧ある者はこれを疑ってはならぬ。疑いを断ちきり、なくし てしまわねばならぬ。仏のことばは真実であり、虚妄ではないのだ。 20
 かの医師がよき方便によって、本心を失った子の病を治すために、真実には常住で あるのに、しかも死んだと言わしめた、それを虚妄と言う者はいないように、
21
 わたしもまた、世間の父であり、もろもろの苦しみや病に陥った者たちを救う 者である。凡夫の心が顛倒しているのを見て、真実には常住であるのに、しか も世を去ると言う。
22 常にわたしを見ているために、驕慢な自分勝手な心を生じ、怠けて五欲に 執着し、悪道の中に堕ちるのであろう。
23
 わたしは常に、生ける者たちの中に道を行じている者と、行じていない者が あるのを知っているから、相手に応じてさまざまに教えを説くのだ。常にわた しはこう念じているのだ――
 どのようにしたら、生ける者たちを無上道に入らせ、早く仏の身となれるよ うにすることができるであろうか、と。

 そのときに、千世界の微塵の数にひとしい地涌の菩薩たちは、皆、仏 の前で一心に合掌して、仏の顔を仰ぎ見ながら仏に向かってこう言った ――
 「世尊よ、われらは仏がこの世を去られたのちに、世尊の分身の仏のい られる国土、その仏たちの世を去られたところにおいて、広くこの経を 説くでありましょう。それはなぜかというと、われらもまた自ら、この 真実で清浄な大いなる教えを得て、受持し、読誦し、解説し、書写して、 これを供養したいからであります」と。

 そのときに、世尊は、この裟婆世界に住んでいる文殊師利ら無量百千 万億の菩薩たち、および、もろもろの比丘・比丘尼・在家信士・在家信  女・天人・竜・ヤクシャ・ガソダルヴァ・アジュラ・カルク・キンナ  ラ・マホーラガ・人間・人間でないものなどの一切の者たちの前で、大  いなる神通力を現わされた。広い長い舌を出して上は梵天の世界にまで 届いた。また一切の毛穴から無量無数の光を放ってあまねく十方の世界 をことごとく照らし出された。もろもろの宝石の樹の下の獅子座の上の 諸仏もまた同様に広い長い舌を出し、無量の光を放った。釈迦如来と、 宝石の樹の下の諸仏が神通力を現わされたとき、満百千歳のあいだそれ は続いた。そのあとで如来たちは舌を納めて、同時に咳払いし、同時に 指を弾いて鳴らされた。この二つの音声があまねく十方の諸仏の世界に まで届いて、大地は皆六種に震動した。その中の生ける老たち、天人・ 竜・ヤクシャ・ガンダルヴァ・アシュラ・カルラ・キンナラ・マホーラ ガ・人間・人間でないものらは、仏の威力によって、皆、この裟婆世界 のもろもろの宝石の樹の下の獅子座の上にある無量無辺百千万億の諸仏 を見、また、釈迦如来と多宝如来とがともに宝塔の中におられ、獅子座 に坐っていられるのを見た。また、無量無辺百千万億の菩薩および、も ろもろの四種の会衆が釈迦如来をとりまいて恭敬しているのを見た。こ れを見終って、皆大いに歓喜して未曽有の思いを得た。

 そのとき、天人たちは虚空の中で高らかにこう唱えた――
 「この無量無辺無数百千万億の世界を過ぎて、裟婆(サハー)と名づけ る国がある。この中に仏がいられる。その名を釈迦牟尼(シャーキヤ・ ムニ)という。今、もろもろの菩薩のために、妙法蓮華・菩薩を教える 法・仏の護念せられるところと名づける大乗経を説かれる。おまえたち は心の底から随喜せよ。釈迦如来を礼拝し、供養せよ」と。

 かのもろもろの生ける者たちは、虚空の中の声を聞き終って、合掌し て裟婆世界に向かってこう言った――
 「南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏」
 そして、種々の花や、香や、瓔珞や、傘蓋や、身の飾り、珍奇な宝、 すぐれたものなどを、はるかに裟婆世界に散じた。散らされたさまざま な物が十方より来ること、雲の集まるようであった。これらは変じて宝   の帳(とばり)となり、あまねく諸仏の上を覆うた。そのとき十方の世界は何の障 碍もなくつながって一仏国土のようになった。

 そのときに仏は、上行菩薩らの菩薩の集団に告げられた――
 「諸仏の神通力はこのように無量無辺不可思議である。もしわたしがこ の神通力によって、無量無辺無数百千万億劫のあいだ、この教えを伝道 することを委嘱するためにこの経の功徳を説いてもなお説きつくすこと はできない。
 これを要するに、一切の如来の教え、一切の如来の自在な神通力、一 切の如来の秘密の教え、一切の如来の深遠な意味が皆、この経に示され、 明らかに説かれているのだ。それ故に、おまえたちは、如来が世を去っ たのちに、一心に受持し、読誦し、解説し、書写し、説かれているとお りに修行すべきである。
 在々所々の国土において、あるいは受持し、読誦し、解説し、書写し、 説かれているとおりに修行している場所、あるいは経巻として安置して いる場所があるであろう。その場所が園の中であっても、林の中であっ ても、樹の下であっても、僧房であっても、在家者の家であっても、殿 堂であっても、山や谷や曠野であっても、そこには皆、塔を建てて供養 すべきである。それはなぜかというと、その場所は道場だからである。 諸仏がそこでこの上ない正しいさとりを得、諸仏がそこで教えの輪を転 じ、諸仏がそこで世を去られた道場だからである。

 そのときに世尊は、重ねてこの意味を明らかにしようとしてこれらの 詩を説かれた――

1
 世間を救う者である諸仏は、大神通力に住されて、生ける者たちを喜ば すために無量の神通力を現わされた。
2
 その舌は梵天の世界にまで届き、身から無数の光を放って、仏道を求める 者のためにこの希有の現象を現わされた。
3
 諸仏が咳払いされた声、および指を弾いて鳴らされた音声は、あまねく十 方の国に聞こえて、大地は皆六種に震動した。
4
 仏が世を去ったのちに、よくこの経を受持する故に、諸仏は皆歓喜して、無 量の神通力を現わされる。
5
 この経を伝道することを委嘱する故に、この経を受持する者を、無量劫のあ いだ、讃美してもなお、讃美しつくすことはできない。
6
 この人の功徳は無辺であって、きわまりがなく、十方の虚空に辺際がないの と同じである。
7
 よくこの経を受持する者は、わたしを見、また、多宝仏および分身の諸仏を 見、また、わたしが今日教化しているもろもろの菩薩を見るのだ。
8
 よくこの経を受する者は、わたしと、分身の諸仏と、世を去った多宝仏とを すべて歓喜させ、
9
 十方の現在の仏、過去の仏、未来の仏をあるいは見、あるいは供養し、ある いは歓喜させることができるであろう。
10
 諸仏が道場に坐して得られた秘密な教えを、よくこの経を受持する者は、久 しからずして、また得るであろう。
11
 よくこの経を受持する者は、教えの意味や、文字や、ことばにおいて、説い て窮まりのないこと、風の空中において全くさまたげがないのと同様であろ う。
12
 如来が世を去られたのちに、仏が説かれた経の因縁と次第とを知り、経典 の真義をかれは説くであろう。
13
 太陽や月の光が、よくもろもろの闇を除くように、この人は世間に行じて、 よく生ける者たちの闇を滅ぼし、
14
 無量の菩薩たちを結局一なる立場に住するようにさせるであろう。この故に、 智慧ある人はこの功徳・利益を聞いて、わたしが世を去ったのちにこの経を受 持するであろう。この人が仏道においてさとりを得るであろうことは定まって いて疑いないところなのだ。

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 コメント
この記事へのコメント
創価学会は真の宗教団体(10)
【私個人のコメント】
そもそも、「創価学会の生命論批判のために」という高みから見下した最初のスタンスが大変な間違いの元です。
しかし、私にとってはこのサイトがきかっけで日蓮大聖人の仏法を一歩深くすることが出来そうです。
2007/11/17(土) 15:37 | URL | すすき #-[ 編集]
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