FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
14. 「孔の穿ち方」その3
 2004年8月28日


 ともかく「よい教育」をめざす。
 でも、いったいどういう教育が「よい」のか。そしてどうしてそれが、「孔を穿つ」ことになるのか。

『6. 石原が恋い焦がれている「国家」』で取り上げた石原の発言には前がある。

 ―卒業式などで生徒が起立しなかった場合に教師らを厳重注意などにする処置は、自分たちが起立しなければ先生が処分されるという一種の脅しになり、生徒の行動を縛ることにならないか
  「それはちょっと違うんじやないの。生徒がそれほど先生を尊敬しているかよくわからぬからね、このごろね。先生が罰せられるの、おれたちは大変だというほど、そこまで意識ないんじやないか」

 質問にまともに答えず、はぐらかす。これも詭弁の一種で、小泉も多用している。
 また、この発言には石原という男の品性の卑しさがよく表われている。まあ学校の先生なんてそんなもんよ、と片頬を歪めてシニカルに冷笑している顔が目に浮かぶ。教師ばかりか、生徒をも侮辱している。こんな浅薄な人間理解しかない奴が教育の現場に土足で踏み込んできている。
 この人、高校生のころ、よっぽど先生に恵まれなかったのか、いつも学校に背を向けて斜に構えていたのだろう。(私は斜に構えているような高校生を嫌いではない。斜に構える方向が反権威・反権力ならば。)
 おそらく高校生・石原は「君が代」など歌ったことはないだろうし、「日の丸」を敬虔に見上げたこともないだろう。今だって怪しいものだと、私は思っている。まあ、あんな時代錯誤の歌、歌わなくても一向に構わないけどね、人に強制するなよ。

 教師の中にも生徒の中にも、眉をひそめたくなるような者が確かにいる。まともな授業が出来ない状態の教室があることも耳にする。だが、ここでは私がかって所属した教育現場で実際に体験したことを元に言うほかない。
 ほとんどの先生はほとんどの生徒と良好な人間関係を築いている。生徒の方から見ても、尊敬したり、親しみを感じたり、影響を受けたりする先生の一人や二人はいるはずだ。
 自分の学生時代を振り返ってみればよい。教育現場の状況に疎い人でもこう思うのが普通だろう。これがまともな人間理解というものだ。

 石原のために教育をしているわけではないが、石原ごときにこんなことを言わせないためにも、「よい教育」をめざそう。

 「よい教育」という大問題は私には荷が重く、私が自分の言葉で語るなどできるわけがない。自分が教師としてやってきたことを振り返り、私にその資格がないことも充分に自覚している。
 これまでと同じように、私に元気をくれている人の言葉を手懸りに考えていく。

 これまでに二度、パウロ・フレイレの言葉を引用させてもらった。そのパウロ・フレイレの教育学を紹介しようと思う。
 フレイレの教育学は「孤立した象牙の塔のなかで」考えたものではなく、ブラジルやチリなどでの識字教育の実践を通して考えられてきた。
 ブラジルやチリと日本とでは情況はかなり違うから、フレイレの提唱する教育がそのまま日本の教育に適用できるかどうかは分からないが、私はフレイレの教育学からとても大事なことを学んだと思う。「よい教育」のめざすべき方向を確信した。

 机上で「よい教育」を考えても、「よい教育」を創り出すことは出来ない。今自分が実際に行っている日々の教育を検証することから始めるべきだろう。
 フレイレによると、私たちが行っているごく普通の教育はほとんど「わるい教育」ということになる。なぜ、どこがわるいのか、謙虚に耳を傾けることにしよう。

 かなり長くなるので、また明日。        

スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック