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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
【凡庸な悪】

《「凡庸な悪」という恐怖》(1)


《「凡庸な悪」という恐怖》(1) は1月18日に掲載したのですが、私が誤って消去してしまったようです。順序が逆になってしまいますが、 1月22日付で再掲載することにしました。面倒なことになり、ごめんなさい。

  前回の「前書き」で
     『今、私の念頭に長い連載になりそうなテーマが一つ巣食っているのですが、それは次回から取り上げることにして、』
  と書きましたが、私の念頭に巣食っていたテーマは「凡庸な悪」でした。今回からこのテーマを新たな表題とした連載を始めることにしました。

  「凡庸な悪」という問題はこのブログを始めた当初から関心を持っていた問題で、既に度々その問題を取り上げています。まず、最初にこの問題を取り上げたのは2007年でしたが、その当初の記事を2016年1月1日に纏めて掲載ましたが、ここでは、再度「凡庸な悪」をテーマにするので、そのテーマの問題点を明らかにしておくことを目的として、2007年に書いた「凡庸な悪」の記事をいくらか書き換えながら転載することから始めることにします。

【2007年2月7日の記事】

「凡庸な悪」について(1)

    大澤真幸(社会学者)さんの論壇時評(1月31日付東京新聞夕刊)に、日ごろ考えていたことと共鳴する一節がありました。まず、その書き出しの一文を転載します。



   現在の国際政治における困難を、あえて宗教的な語を用いて要約するならば、「最後の審判の視点の不在」となろう。

    「私の今の言動が正しいかどうかはわからない。しかし、歴史の最後の日の神の裁きが、それが正義にかなっていたか否かを教えてくれるに違いない」。これが、最後の審判という想定である。
  だが、われわれが今日失っているのは、この感覚つまり仮に目下のところははっきりしていなくても、われわれの行為の規範的な価値を正しく評価してくれる公正な視点がどこかにあるはずだという感覚である。「正義」を呼ぶ声が論壇の世界に響くのは、「最後の審判」を失ったことへの不安の表現にも思える。

 この問いかけは、もちろん、「現在の国際政治における困難」にとどまらない。一般的な倫理の問題として今日的問題であり、私はそのように読んだ。そのように読んできて、次の最後の結語に強く共鳴した。

義務の履行

    「私の今の言動が正しいかどうかはわからない。しかし、歴史の最後の日の神の裁きが、それが正義にかなっていたか否かを教えてくれるに違いない」。これが、最後の審判という想定である。
  だが、われわれが今日失っているのは、この感覚つまり仮に目下のところははっきりしていなくても、われわれの行為の規範的な価値を正しく評価してくれる公正な視点がどこかにあるはずだという感覚である。「正義」を呼ぶ声が論壇の世界に響くのは、「最後の審判」を失ったことへの不安の表現にも思える。 現在の国際政治における困難を、あえて宗教的な語を用いて要約するならば、「最後の審判の視点の不在」となろう。

    「私の今の言動が正しいかどうかはわからない。しかし、歴史の最後の日の神の裁きが、それが正義にかなっていたか否かを教えてくれるに違いない」。これが、最後の審判という想定である。
  だが、われわれが今日失っているのは、この感覚つまり仮に目下のところははっきりしていなくても、われわれの行為の規範的な価値を正しく評価してくれる公正な視点がどこかにあるはずだという感覚である。「正義」を呼ぶ声が論壇の世界に響くのは、「最後の審判」を失ったことへの不安の表現にも思える。

   現在の国際政治における困難を、あえて宗教的な語を用いて要約するならば、「最後の審判の視点の不在」となろう。     「私の今の言動が正しいかどうかはわからない。しかし、歴史の最後の日の神の裁きが、それが正義にかなっていたか否かを教えてくれるに違いない」。これが、最後の審判という想定である。   だが、われわれが今日失っているのは、この感覚つまり仮に目下のところははっきりしていなくても、われわれの行為の規範的な価値を正しく評価してくれる公正な視点がどこかにあるはずだという感覚である。「正義」を呼ぶ声が論壇の世界に響くのは、「最後の審判」を失ったことへの不安の表現にも思える。

   普通、人は、義務を遂行できないときに言い訳をするが、逆に、義務の遂行そのものが言い訳になる場合もある。
   ここで私の頭に浮かんだのがアーレントが「凡庸な悪」と呼んだアイヒマンのケースだ。
   アイヒマンは、職位上の義務だったから、つまり命令があったからユダヤ人虐殺を指揮しただけだ、と主張した。世界大戦中の多くの日本兵も、同じ理由で虐殺を行ったことだろう。

    このように、「正義」や「義務」を与える超越的な他者(神、指導者等)がいるとき、人は、責任をその他者に転嫁できる。  だが、もしそのような他者がいなければ、人は、自らの行為の責任を自らで全面的に引き受けなくてはならない。そうだとすれば、「最後の審判の視点」を失ったわれわれの時代は、倫理を根底から復活させるためのチャンスを有するのではないか。

   「凡庸な悪」は戦時のような極限でだけ生まれるわけではない。
   (その例として、悪辣な都の教育行政に圧迫されている教育現場の現状を取り上げていますが、ここでは割愛します。)

   「職位上の義務」だけでなく「一般的な義務」にまで「義務」を敷衍したとき、義務の履行を「言い訳」とする「凡庸な悪」は私(たち)も日常的に共有している「悪」ではないか。私は自らの人生を省みて内心忸怩たる思いを禁じえない。

    (次回に続きます。)
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