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今日の話題3

続「安倍政権6年間の悪行・愚行」(41)

  東京新聞(2019年8月26日付)の『こちら特報部』欄に澤地久枝さんへのインタビュー記事「アベ政治を許さない;作家・澤地久枝さんに聞く」が掲載されました。この記事をいつかは取り上げたいと思い、切り抜いて保存しておきました。ちょっと長くなりますが、今回はこの記事を転載することにしました。
  澤地久枝さんについてはネット検索で詳しいことを知ることが出来ますが、ここではまず東京新聞がまとめた澤地さんについての紹介文と本文の前書き文を転載しておきましょう。

さわち・ひさえ
  1930年、東京生まれ。4歳のときに満州国吉林に移住、敗戦後の46年に帰国。18歳で中央公論社に就職し、9年間の編集者生活を経て作家デビュー。「妻たちの二・二六事件」 「記録 ミッドウェー海戦」 「密約 外務省機密漏洩事件」 「14歳<フォーティーン>」など著作多数。作家小田実民らと2004年に結成した「九条の会」や、原発事故後の「さようら原発集会」の呼び掛け人となる。


前書き

東京・永田町の国会議事堂前に毎月三日、「アベ政治を許さない」と書かれたポスターを掲げる人の群れが現れる。安倍晋三首相に退陣を突きつけるデモだ。先頭に立つのはノンフィクション作家の澤地久枝さん(88)。シュプレヒコールもない。組織もない。一人ひとりの意志だけに支えられた行動は四年を超えた。猛暑の夏も体の限界に挑むように澤地さんは路上に立った。戦後七十四年。日本を見つめてきた作家は、何を思うのか。 (佐藤直子)


  次に、本文は二編に分かれていますが、その二編の本文を転載します。

《1》

【安保法きっかけ 憲法無視の暴走見過ごせず】

たった一人でも立つ

   じーじーじとセミの声が響く。八月三日。正午すぎの都心の気温は三二度を越えた。強い日差しの中を議事堂正門の向かいの歩道に人が集まる。帽子をかぶり、長袖シャツ姿の澤地さんがあいさつを交わす。つえを左手にした男性。北海道帯広市から、茨城県牛久市から、初めて参加したという女性たち。夏休みの小学生も交じっている。

   午後一時。約百人が一斉に「アぺ政治を許さない」のボスターを高く掲げた。顔に汗をにじませ、みな黙って議事堂を見つめる。十分がたち、通算四十七回目となったこの日のデモは終了。参加者が近況報告をして解散した。
   「すごい暑さでしたからね、ここでひっくり返るわけにはいかないと思って、しっかり足を踏みしめていました。これで立っていられないんなら、やめだなって」。澤地さんは東京都内の自宅で八月のデモをこう振り返った。

   七月の参院選で自民党は議席を九減らした。しかし、投票率が50%に届かず、過去二番目の低さだった。澤地さんはそれが悔しい。「政権支持率はまた少し上がったでしょ。一人ひとりが抗議の意志を示すことが、いよいよ大事になってきましたね」

     作家として澤地さんが問うてきたのは、人間をぼろぼろになるまで追い詰めていく国家や戦争のむごさだった。戦前の二・二六事件や戦中のミッドウェー海戦の遺族らに焦点を当てた作品は、声なき声に耳を澄ます作業であり、日本人が忘れてはならない昭和の罪責を描く作業だった。それは「九条の会」や、3・11後の脱原発運動へのかかわりにも通じている。

    二〇一三年十二月に特定秘密保護法を成立させた政府は、一五年に集団的自衛権の行使を認める安全保障関連法案を強引に成立させようとしていた。憲法を無視した政治の暴走を見過ごせず、澤地さんは自ら呼び掛け人となって.法案が衆院を通過した直後の七月十八日、最初の「許さない」デモを決行した。

    安保法が成立すると国会前の人の波は引いていった。澤地さんは「悪法を廃止しよう」と訴え、憲法公布記念日(文化の日)の十一月三日にデモを再開。それ以来、毎月三日に必ず国会前で立ち続けている。

    「アべ政治を許さない」の文字は、昨年死去した俳人金子兜太(とうた)さんの筆によるものだ。「兜太さんの字は力強い。見ているとね、兜太さんが生きてるみたい」

    国会前のほか、有志が同時刻、全国一斉に同じポスターを掲げる。自分の町の駅頭で、あるいは家の窓から、道ゆく人に見えるように。「政権にノーを言うことに勇気が必要になりましたけど、たった一人になっても立とうと思う。私はこう思うのよって。ギリギリの意志の表明です」と澤地さんは言う。


《2》

【国に捨てられた 敗戦時の苦難が原点】 《戦争二度と許しちゃいけない》


昨日できたことが今日は出来ない

   澤地さんが個人の力を頼みにするのは、国家に対する不信があるからだ。「国家ってものはあてにならない。平気で国民を捨てる。ウソをつくんです」。そう言い切る原点は、敗戦時の難民生活にある。
   幼い時に両親と満州国(中国東北部)に渡り、一九四五年八月の終戦時は十四歳で女学校の三年生だった。満州の関東軍は逃げるように先に撤退し、澤地さんら日本の民間人は取り残された。「私もお国のために死ぬ」と信じていた軍国少女でも、神風は吹かなかったことを理解した。

   ソ連軍の侵攻で日本兵の武装解除が始まった。「家の窓から外を見ていると日本兵たちが戦陣訓の歌を歌いながらソ連軍に捕らえられていった。シベリア送りになったと聞きました」

   澤地さん一家の抑留生活は一年に及んだ。古いアパートに何世帯も身を寄せ、食料は不足した。栄養失調で人が死んでいった。

   中国人による暴行、ソ連兵の「女狩り」があった。澤地さんの家では母が必死で抵抗し、レイプは「未遂」に終わった。それでも恐怖とショックで澤地さんはその晩、トイレで吐いた。「私にとっては、戦後こそが戦争だったんですね」

   記憶は何十年たってもよみがえった。「心や体に深い傷を残す戦争をどうしたら伝えられるかしら」。ぽつりと澤地さんが言う。  「若い人に『「戦争のこと知ってる』と聞いても、知らないっておうむ返しよね。あの戦争で何があったのか、やっぱり、体験者が それぞれの家で伝えていかなければならないと思うのね」

   五〇年六月二十五日。朝鮮戦争が始まった日を澤地さんは忘れられない。早稲田大学第二文学部の学生だった。仲間とピクニックに出掛けた先で開戦を聞いた。「大戦が終わってわずか五年でまた隣国で戦争が始まった。他国で流れた血の上に戦後日本の復興があったことを、忘れてはいけないと思うの」

   かつては自民党の政治家も戦争の悲惨さを語った。ところが、安倍首相は改憲を悲願とし、自民党は改憲草案で自衛隊を国軍と位置付け、憲法九条を骨抜きにしようとしている。「九条を守ることは常識だった。今はすっかり変わって…。沖縄ではアメリカの言いなりに、巨大な新基地がつくられようとしている」

   「日本はまた戦争をする国になると思っていたけれど、今の政治はひどすぎる。国民は真綿で首を絞められていて、昨日できたことが今日はできない、そんなことが、日に日に増えているのではないかしら」

   あいちトリエンナーレ(名古屋市)での「表現の不自由展」が中止された出来事もその一つだ。「京都アニメーションの放火事件が起きたばかりだったから中止になった。ひと言の脅しでできなくなるなんて」
   そして澤地さんは「風流夢譚事件」を振り返る。雑誌「中央公論」に掲載された小説での天皇らの描写に憤った少年が、中央公論社社長宅で家政婦らを殺傷した事件だ。「あの後、天皇制を論じることが一気にタブーになってしまった」

   来年は復興をテーマにした東京五輸・パラリンピックがある。「熱狂の中で即原発事故の被害を消し去る。問題のすり替えです。お祭り騒ぎの後に何がやってくるのか」と澤地さんは暗たんとした思いに駆られる。それでも安倍政権への抗議をあきらめない。

   満州から東京に帰り、バラック生活から始まった戦後。今の東京からは想像もつかない焼け野原の中で、少女らしく生きることは許されなかった。澤地さんにとって、戻りたくない時間なのだ。「戦争を二度と許しちゃいけない。そのためにならまだ頑張れるわよ」。来月、八十九歳を迎える。絶望のときこそ、しゃんとして、澤地さんは希望を見いだそうとする。


   最後に以上の記事の纏めを担当した方のメモを転載しておきます。

デスクメモ

   死者が多数の時、ひとりひとりに思いをやるのは難しい。澤地さんは違った。
   三千四百人を超えるミッドウェー海戦の全戦死者を特定し、名前を示して人生を追った。戦死者は数字でなく人間だと知らせる偉業だ。
   実名匿名が議論になる今だからこそ、記者として先輩に習いたい。  (裕)

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