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422 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(74)
日出ずる処の天子(5) ― 九州年号(3)
2006年1月15日(日)


 前々回に掲載した九州年号表の中の「吉貴」には「喜楽―端正―始哭(始大) ―法興」という別系列のものがある。このうちの「法興」は「伊予風土記」に現れている。
 さて、『日本書紀・敏達紀』に次の記事がある。


(敏達13年=584)是歳(ことし) 、蘇我馬子宿禰、其の仏像二躯を請ひ、鞍部村主(すぐり)司馬連等・池辺直氷田を遣はして、四方に使(つかい)して、修行者を訪(と)ひ覓(もと)む。是に於て、唯播磨国に於て憎の還俗する者を得。名は高麗の恵便(ゑべん)。大臣乃ち以て師と為す。……
是に由りて、馬子宿禰・池辺氷田・司馬達等、仏法を深信し、修行懈(おこた)らず。馬子宿禰、亦、石川の宅に於て、仏殿を修治す。仏法の初、弦(これ)より作(おこ)れり。


 ヤマト王権の本拠地・飛鳥の仏教文化が播磨仏教から伝播されたことを伝えている。古田さんはこの記事から次のような問題を引き出している。


 このような伝播状況から見るとき、わたしたちは、同じ蘇我氏が六世紀末葉から七世紀初頭にかけて飛鳥の地に建築した一大寺院、飛鳥寺、その別名たる法興寺の名について、深刻なる認識に到達する。それは、九州年号の「法興」にもとづくものではないか、と。
 この「法興」の年号は、九州年号に属している。とすれば、播磨なる「明要寺」と同じく、この「法興寺」もまた九州年号にもとづく寺号(別号)ではないか。そういう従来の仏教史家の夢想だもしなかった問題が浮かび上る。

 この間題は、九州年号=倭国年号に関する最深の個所へと、わたしたちを否応なくおもむかせる。それは法隆寺釈迦三尊の光背銘に関する問題だ。それは、金石文の中の九州年号という、問題の決め手となるべき深所だ。


 あの特異な仏像「法隆寺釈迦三尊」の光背銘に登場する「上宮法皇」、定説はこれを「聖徳太子」としている。この「定説」が聖徳太子に関わるもう一つの「虚偽」である。次回は「法隆寺釈迦三尊の光背銘」の解読を読む。
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