FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
天皇制問題(8)

天皇報道と記者たち(3)

   前回では、マスメディアの記者たちは編集幹部の指示に基づいて機械の歯車の一つとして動かされていて、すべての記事は無条件に絶対的な敬語を使って書くことを余儀なくされていた、と指摘されていました。
   しかし、記者たちの受けた理不尽な処遇はそれだけではなかったのでした。
   天皇重体の第一報が報じられた9月19日以降、天皇死去に備えてマスメディア各社は24時間の総動員体制を敷いていたのです。 それを実施した論理的背景を山口さんは次のように論説しています。


記者総動員体制のの論理

   10月4日付新聞協会報によると、
    〈陛下の熱が39度を超え、ご容体が心配された24日(9月)、宮内庁で取材活動に当たった報道関係者は、延べ1260人にのぼった。 (中略) 宮内庁幹部や皇族が出入りする皇居の各門には、24時間態勢で記者約250人が車の往来をチェックした。〉

   JICC出版局「天皇の門番……皇居周辺に張りついた新聞記者69人の111日」(読売新聞『張り番の会』編)によると、読売で張り番に投入された記者の総数は88人、カメラマンが57人。
   また民放連の機関誌『民間放送』(10月3日付)によると、9月24、25の二日間、テレビ各社が報道、中継に動員したスタッフは、TBS450人、日本テレビ500人、テレビ朝日500人、フジテレビ400人、テレビ東京180人にのぼった。

   一人の人間の重体、死亡報道としてはもちろん、 あらゆる事件、事故の報道を通じて、これほど大がかりな取材体制がとられたのは空前でおそらく絶後と思われるが、なぜこうした総動員体制が必要だったのか、という点については、当然のようでいて実は大きな疑問が残されている。それはニュース報道の根幹にあるニュース価値判断にもかかわる問題である。

   天皇の死はたしかに最大級のニュースであろう。しかし、それはいかなる意味においてニュースたり得るのか。
   もしこれが明治憲法下の天皇の死ならば、その絶対的な統制下にあった報道機関が「万世一系の現人神、国政の総攬者にして軍の統帥者」の死が、ただちに国政、外交、軍事全般から国民に与える大きな影讐を考え、無条件に最大ニュースとして報ずるのは、その是非はともかく理解できることである。
   実際、大正天皇の死は、そのように報道された。

   だが、主権在民の現憲法下においては、日米支配層が〝統治の道具″として残した「国民統合の象徴」という憲法の規定を認めたとしても、天皇の死それ自体にそれほどの大きなニュース価値があるとは思えない。ましてや重体段階からマスメディアが記者を総動員するほどの〝大事件″ではない。

   裕仁天皇の死が大ニュースであるのは、彼が〝象徴″なのだからではなく、まず、
 第一に彼がアジア人2000万人以上の生命を奪った侵略戦争の最大の責任者であり、ヒトラー、ムッソリーニと並ぶ第二次大戦の世界三大戦犯の唯一人の生き残りだったからである。天皇の軍隊に踏みにじられたアジアの人々にとってヒロヒトの名は、けっして忘れることのできない惨禍の象徴であった。
 第二には、この戦争で死んでいった200万人以上の日本人、加害者でもあり被害者でもあった日本の民衆、とりわけ、沖縄、広島、長崎の人々にとって、裕仁天皇の死は、やはり特別な意味をもつものであったこと。
 第三には、その天皇がアジア人に対して戦争責任をとらず、沖縄、広島、長崎に対しても「やむをえなかったこと」として戦後を生き延びたこと、
 そして第四には、戦後日本が、こうした無責任な人間を〝象徴〟として受け入れ、侵略、差別、抑圧の構造を温存させながら現在の〝繁栄″を築いてきたこと。
  つまり天皇の死は、私たち日本人が、その過去と現在をトータルに問い直す機会として大きなニュース価値をもっていたのである。

   しかし、すでにみたように天皇を「慈悲深い平和主義者」に描き上げるという基本姿努で予定稿を作っていたマスメディアは、最大のニュース価値である戦争責任を不問に付した。
   そして、戦争の問題を「激動の昭和」というあいまいな時代規定の中に封じ込め、天皇の死を「一つの時代の終わり」「昭和から平成への転換」という非科学的な位置づけでニュースとして価値づけ、記者たちもその空疎な論理で動員するしかなかった。

 〈「歴史的な瞬間を取材できるなんて、記者冥利に尽きる」というのが幹部が記者に激励する合言葉であり、寝食を忘れ、休み返上で張り番する若い記者も歴史の瞬間に立ち会えると、まったくの錯覚に陥って走り回った。悲しい記者のサガである。〉

 〈天皇が死んで、何で昭和が変わるのか。歴史は昭和を生きている国民一人ひとりが形成するのであり、天皇の死によって世の中が変わるのではない〉。
  「マスコミ市民』特集号「天皇病患者としての新聞」で山田喜作氏はこう書いている。

   しかし、「歴史的な瞬間の取材」という幹部たちの合言葉は、あまりにも皮相なものであり、とても彼らの本音だったとは思いにくい。
   あの悲喜劇的な張り番や24時間体制を記者たちに要求したマスメディア幹部の本音は、多分、別のところにあったように思われる。
   それは、天皇の死の瞬間をどれだけ間髪をおかずにキャッチし、ただちに号外を出すとともに他社に負けない量の原稿、映像を流せるか、である。そのためにこそ、大量の記者を皇居各門などに張り付けて24時間、病状変化の参考になる人びとの出入りをチェックさせたのであり、社内でも整理記者を常時待機させたのである。

   こうして迎えた〝その日″が、
     〈Ⅹデーを通過してみての感想をひとことでいえば「1日で終わっちゃった」である。十年余も準備してきたわりには、じつにあっけなかった。〉 (『マスコミ市民』=特集号の「〝その時″の編集局と紙面づくり」石井晴朗)、
    〈慌ただしい取り組みだつたが、それが二日間、実質的にはⅩデーのその日だけで終わってしまった奇妙な不思議を感じた。昨年9月の天皇危篤以降の報道ぶりと社会の萎縮状況から推測して、Ⅹデーとその後はちょっととてつもない事態になるのではあるまいかと身構えたものだったが、何ともあっけなく終わってしまったというのが実感である〉 (前掲『マスコミ市民」特集「揺れたのはマスコミ」=我謝南夫)
   ということになった理由は、もう明らかだろう。

   天皇の死のキャッチで、記者たちの仕事の大半はすでに終わっていたのであり、あとは既定の路線に沿って大量に準備してあった予定稿を多少手直しして紙面・映像化するだけだった。
   天皇死去が本来的にもつニュース価値からすれば、アジアを中心とした世界の人びと、そして沖縄、広島、長崎が、「最後の戦犯の死」をどう受けとめたか、また多くの日本人たちが何を思い、どう行動するか、政府や警察の動きをどう批判的に伝えていくか、などの取材が記者たちを待ち受けていたはずだが、それらは、メディアの基本路線からは、すでにメーンの取材活動ではなくなっていた。

   〈どれだけ熱心に天皇を讃美したか、どれほど多く時間や紙面を割いたか、どれほど天皇をよく知る人物を集め得たか、これらをマスコミ同士が競い合うことで、天皇への近接意識、つまりは報道の正当性を競ったのではないか。その過程で、弱者に対して錦の御旗として掲げられる「報道の自由」は吹き飛んでいた。〉 のである。 (『マスコミ市民』特集「無力感に打ちのめされ」=四方末男)

スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/2574-24b1fec3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック