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416 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(68)
「磐井の叛乱」の虚実(5)
2005年12月26日(月)


 磐井が継体に謀殺されて九州王朝は幕を閉じたのだろうか。否。

(1)
天皇、親(みづか)ら斧鉞(まさかり)を操(と) りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制(われかと)らむ。筑紫より西をば汝制(いま しかと)れ。

クーデター成功後の取り分をこのように取り決めていたが、この密約は実行されたのだろうか。 磐井を謀殺することには成功したが、磐井の支配圏を全部分捕ることはできなかったようだ。 クーデーターにはどうやらどこかで挫折したようだ。

(2)
二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子に、大將軍物部大連麁鹿火、(中略)遂に磐井を斬り て、果して疆場(さかひ)を定む。

 「疆場(さかひ)を定む。」について古田さんの分析はこうだ。

「疆場」とは、本来は田畑のさかいの意ながら、普通は「国のさかい。辺境。国 境」といった意の用法が通例だ。

吾が疆場を審かにし、其の侵地を反(かえ)す。(『管子』小匡) 王(新羅王、慈悲麻立干)、倭人の屡(しばしば)彊錫を侵すを以て、縁辺に二城を築く。(『三国史記』新羅本紀、第三)

 いずれも、対立国もしくは敵対国の国境であって、継体の直轄領域と、(物部麁鹿火によ る)従属領域とのさかいというようなケースでは、いささか不穏当、もしくは不適切だ。

(3)
十二月に、筑紫君葛子(くずこ)、父(かぞ)のつみに坐(よ)りて誅(つみ)せられむこと を恐りて、糟屋屯倉(かずやのみやけ)を献(たてまつりて)りて、死罪(しぬるつみ)贖 (あがな)はむことを求(もう)す。

これは糟屋郡(あるいは県 ―以下同じ)の全領地の割譲ではない。「屯倉」とは、 要するに収穫物を収税物として収めておく倉であるから、その収穫物を献ずるとの約束にし か過ぎない。いいかえれば、その「糟屋郡の屯倉」をはじめ、各地の「屯倉」に対する徴税 秩序、すなわち筑紫権力の既存の統治体系に対しては、継体側は一指もふれない。そういう 誓約をしたことを意味するのだ。

 以上のような「継体紀」の記事の矛盾を、古田さんは次のように推論している。
 内陸部における突然の挙兵によって磐井を斬ったあと、物部(継体側)の軍は劣勢に陥り、 逆に葛子側が大勝を博したのではないか。
 その戦況の背景としては、次の七点が考えられる。

①先に考えたように、物部軍は、最初は友軍として筑紫の内陸部に入った。

②そのあとの挙兵(クーデター)である場合、たとえ磐井を斬ることはできても、継続的 な勝利をうることはむずかしい。

③筑紫の君側には、北に洛東江沿いの「倭地」の倭軍があり、南に無傷の肥後軍等があっ た。物部軍は急を知って南下・北上した両軍の夾撃をうけたものと思われる。

④その上、先にものべたように、筑紫の君側は、西日本海域の制海権をもっていたと思わ れるから、この点からも、物部軍の勝利持続は困難である。

⑤逆に、葛子側にも、後半の優勢化にもかかわらず、交戦を継続したり、さらに近畿への 東征へと戦闘を拡大しえぬ情勢があった。それは、洛東江流域において、新羅軍や高句麗軍 と対峙していたからである。

⑥『日本書紀』は、少なくとも日本列島内においては、敗北の記事がない。これは史実に おいて、無敗の連続だったのではない。この史書は、歴代の天皇の勲績を記す、という立場 に立っており、そのため、敗北や劣勢の記事は、カットされたためと思われる。

⑦対葛子戦の場合も、そのケースの一つである。

 「糟屋屯倉の献上」問題も、これに対する、継体側の譲歩(近畿側の屯倉献上等)の存在し た可能性もあろう。要するに、一方(近畿天皇家側)の記録(『日本書紀』)のみによって、交 戦終結後の両者の実勢力を客観的に判定すること、それは、実証上きわめて困難なのである。


 「磐井の謀殺」は531年。しかしその後も倭の中心は九州王朝にあった。
 時代は6世紀後半へと進む。ヤマト王権内部では物部氏と蘇我氏との抗争の時代である。
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