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413 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(65)
「磐井の叛乱」の虚実(2)
2005年12月20日(火)


 昨日東京地裁で行われた予防訴訟の公判を是非傍聴したいと思っていたのに、都合がつかず 残念だった。その様子を知りたいと思った。[anti-hkm]MLにはまだ掲載がない。澤藤さんが 参加しておいでなら、その日のうちに書くはず、もしやと思って…

 「反ひのきみ」の立場から、毎日必ず開いている頼もしいサイトの一つ

澤藤統一郎の憲法日記

に期待した。「憲法日記」は12月1日に更新されて以来新たな記載が途絶えていた。澤藤さんは 多種多忙な活躍をされている。お身体を悪くされたのではと心配だった。が、今日久しぶりに、 期待通り、日記が更新されていた。もちろん昨日の予防訴訟の記事。まだの方、是非ご覧になって ください。

 さて「磐井の叛乱」。古田さんは「継体紀」の記事から磐井の勢力範囲を分析している。

磐井、(1)火(ひのくに)・豊(とよのくに)、二つの國に掩(おそ)ひ據りて、 使修職(つかへまつ)らず。(2)外は海路を邀(た)へて、 高麗・百済・新羅・任那等の國の年(としごと)に職貢(みつきものたてまつ)る船を誘 (わかつ)り致し

(2)の分析。

 第一、朝鮮半島の国々、高麗・百済・新羅・任那等は、筑紫の磐井の所へ、年毎の貢職船 を派遣している。
 第二、これは、磐井が彼等を欺いて誘致したものだ。

 右の第一は事実、第二は評価だ。実際上は、第一の状態。それに対して継体側が「けしか らん」といっている形である。

 しかし、考えてみよう。高麗・百済・新羅の三国はいずれも、半島側の大国だ。その国々 が、皆まちがえて、あるいは磐井にだまされて、国交の使者を毎年送りつづける。そんなこ とがありうるだろうか。
 さらに任那にとって、日本列島側はいわば「本国」だ。自分の「本国」をまちがえて、使 を送っている。そんなことが世にありうるだろうか。――考えられない。

 以上の事実は、東アジア世界の常識において、日本列島代表の王者が何者であったか、そ の根本の事実を巧まずに語っているではないか。これら三国と交渉、あるいは敵対、あるい は友好していた倭国、あの倭の五王の国がどこであったか、それをストレートに証言してい るのである。
 また、あの任那が、どこを「本国」にしていたか、それを明白に裏書きしていたのである。

 はからずも継体側の証言によって、日本列島の代表の王者が「筑紫の君」であったこと、 それがキラリと裏づけられているのを知った。それは第二巻(「日本列島の大王たち」)以来 の度重なる論証と軌を一にするところである。

 とすれば、当然継体と磐井の間に、「上位者→下位者」の関係はない。むしろ逆だ。神武 東侵という史実そのものが告白しているように、九州側が本家、近畿天皇家側が分流、その 関係は明白なのだ。

 以上によって、「磐井の反乱」という熟語、否、一種の歴史用語が一片の虚辞、誇大レッ テルに他ならなかったことが判明する。論文でも教科書でもこの用語はあまりにも安易に使 われ、人々はこの用語から、すでに九州は天皇家の支配下にあったというあやまれる幻想を 与えられてきた。頭脳という名のコンピューター装置にその用語を既成の知識として挿し込 まれてしまったのである。


「反乱」というレッテルで、大義名分関係を逆転させる手法は『記紀』の常套手段だと、 古田さんは言う。

当芸志実美(たぎしみみの)命の反逆(神武紀)
建波適安(たけはにやすの)王(武埴安彦)(崇神紀)
沙本毘古(さほひこの)王(狭穂彦)(垂仁紀)
香坂(かごさかの)王・忍熊(おしくまの)王の反逆(神功紀)
大山守命の反逆(仁徳紀)

 これは全て矢印を反対方向にして読むのが正しい読み方ということになる。

 彼等(建波適安・沙本毘古)はいずれも、当の崇神や垂仁に先立つ大国・名門の王者だった。 崇神・垂仁側こそ外来の侵入者だった。にもかかわらず記紀は侵入された相手側を「―の反逆」と して処理しているのだ。レッテルは逆に貼られているのである。それによって人々は正しい 歴史認識からいつもさえぎられてきた。
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