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411 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(63)
倭の五王(4)
2005年12月16日(金)


 次に、「雄略紀」の記事

夏四月(うづき)に呉国(くれのくに)、使(つかひ)を遣(まだ)して貢献 (ものたてまつ)る。

についての古田さんの論述をまとめてみる。
 (ここから文献として古田さんの著書「法隆寺の中の九州王朝」を加える。)

 以下は記紀の中にある説話「磐井の反乱」が、実は傍流・ヤマト王権の本流・ 九州王朝に対するクーデターであったことを読解するくだりに挿入された論述だ。
 なお後ほど詳しくその論証を取り上げる予定だが、次の3点が上記の「雄略紀」の記事を解読 するための重要な観点となる。

1.
 朝鮮半島で戦闘を繰り広げていたのはヤマト王権ではなく、九州王朝である。
2.
 九州王朝が朝貢していたのは南朝である。一方、ヤマト王権はもっぱら北朝とよしみを 通じていた。
3.
 「白村江」の戦いで敗れた九州王朝の勢力の減衰に乗じて、ヤマト王権が覇権を簒奪して いった。
4.
 遣隋使は九州王朝による外交使節である。ヤマト王権が中国と深く関わるのは遣唐使からだ。

 さて古田さんの論述は次のようだ。

 この呉国とは、南朝のことだ。もし雄略期なら、南朝劉宋となる(ただ 『日本書紀』の場合、九州王朝の史書からの転用、挿入があり、そのさい時 期は厳密でない)。

 つまり、中国側の天子が近畿天皇家に対して「貢献」してきたという。天子 の方が下位者、近畿の方が上位者、そういう表記だ。だからこの用語によれば、 近畿天皇家は、南朝の天子まで配下の豪族、あるいは西方の夷蛮として支配し ていたこととなろう。この「呉国貢献」というレッテルが、もしクローズ・アッ プされたならば、すでに五世紀、華南は天皇家の勢力圏だったこととなろう。さ すがに、戦前の皇国史観流の論者も、そこまではやらなかったようであるけれど も。

 しかし、先述来の「反乱」問題とこの「貢献」問題、両者とも『日本書紀』にとって同一 のイデオロギーの立場なのである。
 このような目で見れば、磐井の場合、これを「反乱」と呼ぶのは、史実の問題としては、 根も葉もないレッテルであったこと、そしてその真の理由が判明しよう。

 なお、右で南朝を「呉国」と呼んでいる点についてのべておこう。
 これは『日本書紀』が北朝側の大義名分論に同じているからである。『日本 書紀』の成立した八世紀初頭、天皇家が唐朝への完全同調路線を歩んでいたことは有名だ。 のちにのべる、あの大宝律令なども、唐の律令格式のそっくりさんの趣の強いことは周知の ところだ。何といっても、白村江の大勝によって、唐の東アジア世界に対する威令が、秦・ 漠朝以来の、最大の輝きを帯びていた時代に『日本書紀』は編述されたのである。

 その唐朝は、隋朝の禅譲をうけて成立した北朝系の国だ。南朝は最後の陳のとき、隋によ って滅ぼされた。隋の開皇九年(589)のことだ。
 北朝にとっては、久しく南朝は天子の国ではなかった。「呉国」が長らく反逆していた。 これが大義名分上の立場だったのである。
 その北朝が南朝を滅ぼし、天下統一をなしとげたあと、当然隋・唐朝にとっては、南朝の 天子など、存在しなかった。未帰服の「呉国」が存在しただけ。基本的な立場はこうだった。 その立場を『日本書紀』が過激にとっているのである。南朝のみを正統の天子とし、北朝を 逆賊と見なした、あの倭の五王の立場とは、まさに正反対だ。

 このように『日本書紀』は、八世紀時点のイデオロギー上の立場から、歴史上の国名や事 物や事件に対して、遠慮なくレッテルを貼る、そういう手法の史書だったのである。

 (これに対し、中国側の唐朝では『北史』『南史』という北朝・南朝別載の史書が成立して いる。
 つまり右のような基本の大義名分論は当然ながら、にもかかわらず、歴史上の事物を客観的 に表記し、記述する、そういう努力をしめしている。この点『日本書紀』ほど歴史の事実に対 して傲慢ではない、といえよう。)

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