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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
今日の話題3

四十数年前の作品(2)

 論説の一つは「化石が蘇る」という表題で天皇制の問題を取り上げています。言うまでもなくこの問題は現在にまで連綿と続いている問題ですが、四十数年前の一青年論説としては今でも通用する良く書けた論説だと自画自賛しています。しかし、顔をしかめて反発する人が多いかもしれませんね。改めて問題提起ということで掲載しておきます。

   

化石が蘇る

 ぼくが日本国憲法を初めて読んだのは中学一年の時だったと思う。第一条と第九条が特に強調され教えられたという印象がある。
 その時、第九条の方は大変明確なことですぐに納得できたのに対して、第一条の方はぼくにはどうしても理解できなかった。

 その後、第九条の方は、予備隊→保安隊→自衛隊と日本の軍隊の名称の変化とともに、ぼくが納得していた意味とはますますかけ離れたものに恣意的に変えられてきた。
 そしてその都度第九条は多くに人に論じられ、大きな問題としてぼくの意識の中に定着している

 その一方、第一条の方は表面きって論じられることもなく、普段はほとんど忘れられているのは何故だろうか
 ぼくが初めて憲法を学んだときの疑問は相変わらずのままなのだが、天皇が日本国の象徴であるという変てこな規定が他の人にはすっかり納得できているのだろうか。あるは納得できないぼくが愚かなのだろうか?

 最近、新聞の天皇に関する記事には最上級の敬語が麗々しく使われている。これが以前からのことなのか、最近急に起こってきた現象なのか、いまそれを調べる余裕がないが、ぼくには大変奇異な感じがする。

 「万世一系」であった頃、「天皇」という言葉が口にされるとその場に居合わせたものは全員直立不動の姿勢をとったというが、それを彷彿とさせるような語調である。しかし、ことは文法の問題ではない。
 つい先日、ニクソン大統領が天皇の訪欧の折に天皇と会見をしたいということを申し出たそうだが、その時の記事では天皇を「元首」と呼んでいた。「象徴」とは「元首」のことだったのか。そのうちに「君主」になるのかも知れない。

 天皇の存在が一般に問題とされないのはそれが新たにタブーとなりかけているためだろうか。それとも、天皇制イデオロギーは既に化石であって、もう蘇る心配がないからだろうか。
 天皇制イデオロギーそのものは蘇らなくとも、それと同じ論理が隠微な形でもう久しい以前からぼくらを圧迫していると思うのは、ぼくの誇大妄想のせいだろうか。
 とまれ、天皇制イデオロギーを意識せざるを得ない問題が、ぼくの身近にあって、ぼくは最近それに大変こだわっている。

   わがきみは、千世にやちよに さざれいしのいはとなりてこけのむしまで (岩波古典文学大系の古今和歌集巻第七より. 通し番号343)

 これは日本の国歌「君が代」の本歌である。岩波古典文学大系にはこの歌に頭注があって
 『「きみ」は広く用いることばであって天皇をさすとは限らない』
 とある。これは高校生程度の古典の素養があるものにとっては常識である。その程度の常識をなぜわざわざ頭注にしたのだろう。ちなみに「きみは」という句を用いている他の歌を任意に数首さがしてみたが、「きみ」についての頭注は後にも先にもない。この頭注は343の歌に限ってつけられたものらしい。

 この頭注を付けた人の心にどんな意識が働いたのだろうか。
 「わがきみは」というときの「きみ」は一般には女性が男性を呼称するときの二人称代名詞であるが「君が代は」というときの「きみ」は天皇以外のものを指すことはありえない。頭注者は一般読者が国歌の「きみ」の意味を本歌にまで敷衍することをおそれて注意を促そうとしたのか、あるいはその逆で本歌の「きみ」の意味を国歌にまで敷衍しようという心積もりなのか、いずれにしても、これもことは文法の問題ではないと、ぼくは思う。
 本歌を読むときにさえ、国歌を強く意識せざるを得ない、その時に起こったであろう頭注者の意識の微妙な屈折は、恐らくぼくらにとって見過ごせない問題である。

 軍隊と警察と教育を掌握したときの国家権力は絶対である。どのような体制の国家であれ、国家権力は教育を我がものにしようと躍起になる。
 明治憲法下の天皇制イデオロギーが教育の場を通して、とりわけその度々の儀式を通して青少年の意識のうちに刻み込まれていったことは周知のことだ。
 そして今、この国の国家権力の志向が奈辺にあるかは今問題になっている教科書問題や中教審答申の中に集約的に示されており、もっとあからさまには学校での国歌斉唱がじわじわと強要されつつある。
 国民が国歌を歌うのは当たり前、「きみ」は天皇を指すとは限らず、この歌は祝い歌に過ぎないという皮相なでまかせの論理が、歌っても歌わなくてもどっちでもいいじゃないかという大多数を吸収していく。

 国際的な行事や国家行事さらには大相撲の会場にいたるまで、国家がうたわれる機会は多い。人々は一体どういう気持ちでなにを考えながら「君が代は」という句を歌い、あるいは聞いているのだろう。それは心に何の屈折も起こさず、ストレートに通過してしまうのだろうか。

 最後にもう一つ素朴な疑問。
 社会党や共産党の先生方は、目出度く政権を握るようなことが起こった時、ありがたくかしこまって天皇から認証のお言葉を頂くのだろうか。国際上の場で国歌が必要な時、おごそかに敬虔に「君が代」に耳を傾けるのだろうか。

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