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421 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(73)
日出ずる処の天子(4) ― 九州年号(2)
2006年1月14日(土)


 九州年号、正確には倭国年号というべきか。
 倭国年号が実在したことを如実に示す証拠が「続日本紀」にある。聖武天皇の神亀元年(724)の記録。古田さんの口語訳で読んでみる。


 (神亀元年の)冬十月丁亥朔。治部省が奏言した。
 京(みやこ)や諸国の僧尼を登録させた、その名籍をしらべてみるに、或は、入道した、もとの経緯(いきさつ)に関し、その披陳状に申しのべるところがハッキリしないものがあります。或は、その僧尼の名前は「綱帳」にはあっても、かえって「官籍」の方には脱落しているものもあります。或は顔かたちで、ほくろをしるしながらも、一致していないものもあります。
 以上、すべて千百二十二人。「格式」(「律令格式」の内の実施細目)に准じあてはめて、「公験」(公的な許可状)を給わるべきでありますけれども、いかに処分していいか、分りません。(聖武天皇の)お裁きを伏してお聴きしたいと思いますと。

 (聖武天皇の)詔報(返事の詔勅)に曰く、

 (僧尼の披陳状によれば)『白鳳以来』『朱雀以前』とか、のべているけれども、それらの「年代」ははるかに遠いことであり、(当の僧尼に)尋ね問うてみても、ハッキリさせにくい。
 また所司の方で記注しているところも、粗略の点が多い。(だから、過去の経緯は問わず)新たに見名(現在の名籍)を一定して、それによって公験を与えるようにと。


 この記録に対する古田さんの分析を「日本古代新史」から書き出してみる。 (この著書は「古代は輝いていた」三部作のダイジェスト版にあたる。古田古代史の概略を知るというこのHPの目的にはこの著書が便利だ。より詳しい論証を検討したい場合は「古代は輝いていた」三部作を読んでください。)
 まず「年代」という語が〝帝王の治世″をしめしていることを確認して次のように論述している。


 さて、ここで聖武天皇の詔勅が「年代」といっているのは、当然ながら〝「白鳳」や「朱雀」といった年号が使われた、その当の「治世」″のことを指している。少なくとも、ふくんでいる。それは文脈上当然だ。
 ところが、白鳳・朱雀とも前回の表に見るように七世紀の後半だ。八世紀初頭に当る聖武天皇の神亀元年(724)から見て、けっして〝時間的にはるか昔のこと″ではない。
 すなわち、これはただの「時間」ではない。「空間」もふくんでいる。大いにふくんでいる。〝この「白鳳」とか「朱雀」とかいう年号は、わたしたちの王朝で作ったものではないから、今わたし たちが調べようとしてもなかなか事の実態をつかみにくい″そういっているのだ。

 考えてもみよう。神亀元年といえば、日本書紀の成立した養老四年(720)の四年あとだ。つまり、聖武天皇の机の上には、できたてのほやほやの日本書紀がおかれていたはずである。その正史には、「白鳳」という年号も、「朱雀」という年号もない。まったくない。この事実を正視すれば、この二年号が、〝天皇家の年号でない″ことは、およそ自明の事実なのである。他に考えようはない。


 だが天皇制イデオロギーに呪縛されている学者はまたしてもこじつけの説を掲げる。日本書紀には「白雉」「朱鳥」なら登場する。これと結びつけて「白鳳=白雉」「朱雀=朱鳥」なのだと主張する。


 率直に考えてみれば、これはいかにも不当だ。なぜなら「白雉」ならきじ   おおとり 「白雉」、「朱鳥」なら「朱鳥」と、ハッキリ書けばいいのであって、その「雉(きじ)」を「鳳(おおとり)」に〝昇格″させたり、「雀」を「鳥」へと〝一般化″すべき理由などどこにもない。
 ことに、日本書紀を公布した直後だ。その正史にない「年号」を、もし天皇自身が使って詔報を出すとしたら、一種、混乱をきたすだけであって、一利もない。知れ切ったことだ。
 そうではない。だからこそ、〝日本書紀にない年号など、使うな″。そういっているのだ。すなわち、裏返せば「日本書紀にない年号」が、それまでは実際に使われていたのである。


 倭国年号が実用されていた痕跡が九州とその周辺の寺院・神社などに残っている。古田さんが挙げられている例。

①貴楽弐(二)年創立 (欽明期)
 (福岡県)御井郡東鯵坂両村、若宮大菩薩(久留米史料叢書、第七集)
②白鳳十八年創立(天武期)
 (熊本県)玉名郡内田手永、↑津原村、飛尾大明神、春鏡社〈肥後国誌〉

③知僧三年創立(欽明期)
 (佐賀県)與賀淀姫大明神(肥前古跡縁起)

④定居元年(推古期)
 (山口県)佐波郡・西佐波令、仮屋村、福宝寺・百済の琳聖の渡来。〈防長風土注進案〉


 九州年号は九州周辺だけで使われていたのではない。近畿の中でも九州年号が実用されていた例として、古田さんは兵庫県神戸市の丹生(たんじょう)山明要(みょうよう)寺をあげて言う。


 この「明要」は九州年号だ。文亀三年(1503)に、沙門祐賢が「勧進」(寺の普請のための募金)を求めてしるした公的な書状が丹生山明要寺文書として残されている。その中に、この寺の創立は、

明要元年、辛酉、三月三日

のことだとのべている。この「辛酉」という干支は、先の九州年号表の中の「明要元年」とピッタリ合っている。まがうかたもない九州年号だ。


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