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408 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(60)
倭の五王(1)
2005年12月10日(土)


 好太王の死後も高句麗と倭との激戦は続いていた。讃以降の倭王もその戦いを引き継いでいる。 ここで中国史書に記録されている「倭の五王」の全記事を読んでおこう。 古田さんが年代順にまとめたものを掲載する。

1 (396年~418年)
 晋の安帝の時、倭王賛有り。 (『梁書』倭伝)

2 (413年)
 (晋安帝、義煕九年)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師、並びに万物を 献ず。 (『晋書』安帝紀)

3(「義煕起居注」)倭国、貂皮・人参等を献ず。詔して細笙・麝香を賜う。  (『太平御覧』香部一、麝条)

4 (421年)
 高祖の永初二年、詔して曰く「倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、 除授を賜う可し」と。 (『宋書』倭国伝)

5 (425年)
 太祖の元嘉二年、讃、又司馬曹達を遣わして表を奉り、万物を献ず。
 讃死して弟珍立つ。傍を遣わして貢献し、自ら使持節・都督、倭・百済・新羅・任 那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭国王と称し、表して除正せられんことを 求む。詔して安東将軍、倭国王に除す。珍、又倭隋等十三人を平西・征虜・冠車・輔 国将軍の号の除正せんことを求む。詔して並びに聴(ゆる)す。 (『宋書』倭国伝)

6 (430年)
 (文帝、元嘉七年、春正月)是の月、倭国王、使を遣わして万物を献ず。《珍》  (『宋書』倭国伝)

7 (438年)
 (文帝、元嘉十五年、夏四月)己巳、倭国王珍を以て安東将軍と為す。 (『宋書』帝紀)

8 (438年)
 (文帝、元嘉十五年)是の歳、武都王・河南国・高麗国・倭国・扶南国・林邑国、並びに 使を遣わして万物を献ず。《珍》 (『宋書』帝紀)

9 (443年)
 二十年(文帝、元嘉二十年)、倭国王済、使を遣わして奉献す。復た以て安東将軍・倭国王 と為す。 (『宋書』倭国伝)

10(443年)
 (文帝、元嘉二十年)是の歳、河西国・高麗国・百済国・倭国、並びに使を遣わして万物を 献ず。《済》 (『宋書』帝紀)

11 (451年)
 (文帝、元嘉二十八年)使持節・都督、倭・新羅・任那・加薙・秦韓・  慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍は故(もと)の如く、并びに上(たてまつ)る所の二十三 人を軍郡に除す。《済》 (『宋書』倭国伝)

12 (451年)
 (文帝、元嘉二十八年)秋七月甲辰、安東将軍倭王倭済、安東大将軍に進号す。  (『宋書』帝紀)

13 (460年)
 (孝武帝、大明四年、十二月丁未)倭国、使を遣わして万物を献ず。《済》 (『宋書』帝紀)

14(462年)
 済死す。世子興、使を遣わして貢献す。世祖の大明六年(孝武帝)、詔して曰く 「倭王世子興、奕世載(すなわ)ち忠、藩を外海に作(な)し、化を稟(う)け境を 寧(やす)んじ、恭(うやうや)しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を 授くべく、安東将軍・倭国王とす可し」と。 (『宋書』倭国伝)

15 (462年)
 (孝武帝、大明六年、三月)壬寅、倭国王の世子、興を以て安東将軍と為す。  (『宋書』帝紀)

16 (477年)
 (順帝、昇明元年)冬十一月己酉、倭国、使を遣わして万物を献ず。《興》 (『宋書』帝紀)

17 (478年)
 興死して弟武立ち、自ら使持節・都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・ 慕韓七国諸軍事、安東大将軍・倭国王と称す。順帝の昇明二年、使を遣わ して表を上る。曰く「封国は……(中略)……以て忠節を勧む」と。詔して、武を使 持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・幕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭王に除 す。 (『宋書』倭国伝)

18 (478年)
 (順帝・昇明二年)五月戊午、倭国王武、使を遣わして万物を献ず。武を以て安東大将軍 と為す。(『宋書』帝紀)

19 建元元年(479、高帝)進めて新たに使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦  韓・(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍・倭王武に除し、号して鎮東大将軍と為さしむ。 (『南斉書』倭国伝)

20 (502年)
 (高祖武帝の天監元年)鎮東大将軍倭王武を進めて征東将軍に進号せしむ。(『梁書』帝紀)

21 (502年)
 高祖即位し、武を進めて征東将軍と号せしむ。(『梁書』倭国伝)

〔付〕22(522年あるいは519年―「三年くり上げ」問題)
 継体天皇十六年。武王。年を建て、善記といふ。是九州年号のはじめなり。 (『襲国偽僣考、鶴峯戊申』)


 これだけの記録があるのに「日本書紀」にはこれらと一致する記録がまったく ない。この事実をあやしまずに、単なる語呂合わせに過ぎない脆弱な論拠(「第 349回」参照)で「倭の五王」をヤマト王権の天皇に当てて定説としている 学者たちの知的退廃を改めて思う。
 ふと思いついて手元にある森浩一著「記紀の考古学」を調べてみた。「倭王興から倭王武の ころ」という章がある。その中で曰く。

「安康天皇は『宋書』にあらわれる倭王興であることは定説とみなしてよい。」
「倭王武と推定されるワカタケル(雄略天皇)」

 この著名な考古学者の著書は1996年~2000年にかけて執筆されている。

 一方、古田さんの主な著書は既に1970年頃から1980年代に刊行されている。 古田さんの論証になんらの反証もせずに、古田さんが論破した定説に相変わらず しがみついての論考はもはや学問とはいえない。それは単なるイデオローグ に過ぎない。古田さんの論考に対して「採択せず・論争せず・相手にせず」の 「三セズ」を決め込んで書かれている論文はすべて反故に等しいと言ってよい と、私は思っている。

 天皇の名を漢風諡号ではなく和風の呼称で論述する見識を持つ森教授もまた「三セズ」一派の 学者なのか。やんぬるかな。

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 コメント
この記事へのコメント
拙論、謎の五世紀をあぶりだす(越境としての古代第五号)を読んでいただけますか
2010/04/06(火) 01:48 | URL | 寺下眞治 #-[ 編集]
済は後の百済王余慶
興は余慶の子昆支
武は余慶の子斯麻、後の百済武寧王
さらに
継体は斯麻の子で、後の百済聖明王
とする。
2010/04/06(火) 01:58 | URL | 寺下眞治 #-[ 編集]
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2010/06/17(木) 14:54 | | #[ 編集]
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