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407 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(59)
激動の朝鮮半島(11)―好太王の敵手
2005年12月7日(水)


 好太王と対戦した倭王は「讃」だ。いわゆる「倭の五王」と称されている王の うち最初の王である。

 高句麗の好太王と晋の安帝の在位期間は下記のようになる。

391年 好太王即位
396年 安帝即位
412年 好太王没・413年 長寿王即位
418年 安帝没・恭帝即位
420年 東晋滅亡

 好太王碑には好太王の最初の勲功の年は永楽5年(395)と記録されている。
 一方、倭王・讃についての記録は次の通りである。

① (396年~418年)
 晋の安帝の時、倭王賛有り。 (『梁書』倭伝)

② (413年)
 (晋安帝、義煕九年)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師、並びに万物を 献ず。 (『晋書』安帝紀)

③(「義煕起居注」)倭国、貂皮・人参等を献ず。詔して細笙・麝香を賜う。  (『太平御覧』香部一、麝条)

④ (421年)
 高祖の永初二年、詔して曰く「倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、 除授を賜う可し」と。 (『宋書』倭国伝)

⑤ (425年)
 太祖の元嘉二年、讃、又司馬曹達を遣わして表を奉り、万物を献ず。

 古田さんの論証は次のようである。古田さんは「安帝の鎖の論証」と呼んでいる。

 ①で、倭王賛(讃と同じ)は、東晋の安帝のときに当るとのべられている。
 してみると、この安帝の治世とは、すなわち好太王の活躍した時代だ。したがって好 太王の敵手であった倭王は、まず倭王讃。そういう三段論法が成立するのだ。これが安帝の鎖の 論証である。

 もっとも、厳密に考えると、一つの問題がある。それは安帝の末年(412~418)の六年間は、 高句麗では、すでに好太王の時代は過ぎ、次の長寿王(在位413~94)の時代 になっている。だから同じ安帝といっても、倭王讃はこの六年間に当っていたとしたら、好 太王とはすれちがいに終ることとなろう。

 けれども、もしそうであったとしても、少なくとも讃の王子(太子)時代は、好太王軍と の決戦に明け暮れていたことであろう。
 肖古王と貴須王子のごとく、王と太子が共に闘う、これが当時は珍しくなかったよ うである。
 倭王武の上表文でも、同様の状況が暗示されている。「父兄」が一緒に戦陣の間に死んだ、 というのである。
 このような戦国のならいからしても、倭の王子讃が、好太王と相対峙し、決戦をくりかえ していたこと、それはほぼ確実だ。

 次は、高句麗と倭国が並び貢献したという②の安帝の義煕九年(413)の問題。それは 好太王の没した翌年、長寿王即位の年である。好太王碑の建立された年(甲寅年、414) の前年に当る。つまり、あの長大な一世の一大巨碑がまさに着々建造中。そういう年だった のである。
 好太王の死、―それは東アジア世界を駆けめぐった一大ニュースだった。それをわたし は疑わない。
 好太王はアレクサンダー大王やナポレオン一世のように、東アジアの一角の政治・軍事上 の大勢を一変させた一代の風雲児だった。倭・百済の連合軍の前に劣勢下にあった父(故国 壌王)、その形勢を逆転したのだ。
 その好太王が死んだ。――次はどうなる。そういう未知にふるえる緊迫のとき、それがこ の義煕九年という年のもつ意味だ。だから「高句麗・倭国」と何気なく並べて書かれている けれども、両者の貢献への思惑は鋭く対立していたのである。

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