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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
恥を忍んで、自作品の公開

詩文編(2)

 前回から最終詩集の詩の紹介を詩集の順序通りに始めたのですが、詩の本意を知っていただくためには詩の底流を流れている私の死生観(あるいは人生観)を直接知っていただくのがよいのではないかと思い至りました。
 そこで今回は順序を変えて、私の死生観(人生観)を直接語っている最終詩集の第1部と第2部の最後の詩文を転載することにしました

 そこでまず最初に、詩集の表題として用いている「母の沈黙 あるいはふるさとのありか」(第2部の最終詩文)を紹介することにします(少し長いですが、一気に転載します)。

「母の沈黙 あるいはふるさとのありか」
地の中に眼がある
拒むこと以外に 死を
死に続けるすべをもたない夥しい屍体の。
腐蝕し土と化した肢体の痛みを
一点に凝縮して腐触を拒み
あらゆるモニュメントを拒み
歴史へのいかなる記載をも拒み
数であることを拒み
大きく見ひらかれたまま
閉じることを拒み
無駄死を強い続ける卑小な生者のための
奈落への心やさしい道づくり。
数千年の眼孔の堆積は巨大な穴となり
ふるさとの墳墓
あるいは忿怒は増殖する。

<ふるさともとめて 花一匁>

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戦闘宣言

 みなさま、今度はおらの地所と家がかかるで、おらは一生けん命がんばります。公団や政府の犬らが来たら、おらは墓所とともにブルドーザの下になってでも、クソぶくろと亡夫が残して行った刀で戦います。
 この前、北富士の人たちは、たった二十人でタイマツとガソリンぶっかけて戦っただから、ここで三里塚反対同盟ががん張れねえってことはない。ここでがん張らにゃ、飛行機が飛んじゃってしまうだから。

 おら七つのとき、子守りにだされて、なにやるたって、ひとりでやるには、ムガムチューだった。おもしろいこと、ほがらかに暮したってことなかったね。だから闘争が一番楽しかっただ。
 もう、おらの身はおらの身であって、おらの身でねえだから、おら反対同盟さ身預けてあるだから、六年間も同盟や支援の人達と反対闘争やってきただから、だれが何といっても、こぎつけるまでがん張ります。みなさんも一緒に最後まで戦いましょう。
一九七一年。小泉よね。六十三歳。
 よねさんは最下層の貧農に生れて、七つの時に年貢代りに地主の家へ子守りに出され、年ごろになると料亭づとめに出た。だからほとんど字が読めない。
 敗戦直後、夫を病で失う。子供はいない。二アールほどの田を耕し、近所の農家の手伝いをしてほそぼそと暮してきた。おかずがなく、ご飯に塩をかけて食べたこともあったという。

 成田空港反対闘争を通して、よねさんは得がたいものを得た。「貧者」へのあわれみと軽蔑でしか接してくれなかったこれまでの 周囲の者にくらべ、新しい仲間はまともにつき合ってくれた。六十余年の人生でそれはおそらく初めての経験だった。九月初め、よねさんの 「戦闘宣言」が垣根の上に立てられた。
 人民の虐殺と共同幻想の操作とをセットにした巧みな戦術が国家権力がその延命をはかるための常套手段である。成田の第二強制執行は警察官二名死亡、学生一名瀕死の重傷という犠牲を強いて完遂された。日常を覆っている平和という幻想のベールがひととき破れて、日常的なジェノサイドの進行が露呈する。昭和の十五年戦争を中心とする<自らのものでない死>の列は今なお連綿と続いている。

 第二強制執行で残されたよねさんの家は、流血をさけるためという名目で、予定を繰り上げて抜き打ち的にとりこわされた。よねさんの家は土間と六畳一間、押入れだけの掘立小屋のような母屋であった。借地に住んでいたよねさんの補償金は八十万円たらずだという。これはかけがえのない一人の全生涯の掠奪である。欺瞞にみちた言葉しか持たない支配者らの口もとに卑しいうすら笑いがうかんでいるのを、そのときぼくは確かに見た。

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 ぼくは母の出自についてほとんど何も知らない。母がどんな娘時代を過ごしたのかは勿論のこと、いくつの時に結婚したのかすら知らない。戦災で焼け残った写真の中に母の若い頃のものが一葉あった。丸髭を結い、地味な着物を着て正座し、お針仕事をしている。結婚後に写したものであろう。初々しく美しい写真であった。しかしその写真の母はぼくがなつかしく想い出す母とは遠い。

 敗戦のときぼくは七歳であった。何ごとにも奥手であったぼくのそれまでの記憶は貧しい。その記憶の中では母はほとんど影のようであり、確かな像を結ばない。ぼくは十人兄弟の下から二番目で、長姉とは十五歳ほど年が違う。その姉がぼくをたいへん可愛がってくれて、母親代りをしてくれたようだが、そんなことも敗戦前の母の記憶が薄い原因かもしれない。ともかくぼくの記憶の中で母の像が鮮明になるのは敗戦後のものである。

 母はあけっぴろげな下町風の気質で、厳しいところもあったがたいへんやさしく冗談などもよく言う明るい人だった。1899年生 まれで、ごたぶんにもれず充分な教育を受けていなかった。新聞をどうにか読めるぐらいの文字は知っていたが、数字などはいくら注意をしても十五を105と書いてしまうほどだった。そんな母がぼくは大好きで、母にあからさまに甘えるのを気恥ずかしく思う年頃になっても、弟が何の屈託もなく母に甘えまとまわりついてふざけ合っているのを一種の嫉妬をまじえてうらやましく眺めていたものだった。

 敗戦前の家庭生活についての記憶は、疎開先でのものを除けば概して明るいものが多い。しかし九人もの子供(十人のうち三男は幼い頃に死んだ)をかかえての暗い時代の生活であるから、実際には母にとってはたいへん苦しいものだったに違いない。母は泣きごと一つ言わず、黙々と子を育て家庭を守ってきた。この母が丹精をこめて築いたものが戦争によりあとかたもなくなってしまった。家を焼かれ、家財道具もほとんど残らなかった。敗戦とともに父は今までの安定した職を失い、以後転々とする。家もそれまでの大きな家から八坪ほどの長屋の一棟に変わる。11人もの家族が住むにはあまりにも小さい。劣悪な環境の中で、家計を担えるほどに大きくなっていた長男と長女と四男が、敗戦後わずか数年の間に、次々に病で死亡した。(この兄姉の死は勿論のこと父母の死も国家権力による殺され死だとぼくは思っている。) 家庭は悲しみと貧しさの極みにいたり、瓦解寸前の状態が長く続く。だがやはりぼくは母の泣きごとを聞いたことがない。
 母は家計のやりくりが下手だった。というより金銭に対してたいへん大様で、毎日あしたの衣食をどうするかを考えねばならず借金に借金を重ねるような状態であったのに、幼い子供には情ない思いをさせたことがなかった。少なくともぼくにはそうした経験がない。やりくり下手は、これも母の子供への慈しみだったのだろう。

 ぼくが家庭の貧乏のほどをはっきりと自覚したのは、実際にはもっとずっとあとのことで、中学校を卒業する頃だろうか。父が老年のため働けなくなり、兄や姉の収入だけで家計がまかなわれるようになり、次姉が家計をあずかることになって絶望的な経済状態が明らかになった。それとともにそれまでに積み重なってきたさまざまな問題が一気に噴出し、家族の間にいさかいが絶えなかった。姉が母を激しくなじりとがめることもしばしばあった。ぼくは母が可哀そうでならなかった。結婚をほとんどあきらめて一家を立て直そうとしている姉を非難することもぼくには勿論できない。ぼくは自分の家の貧乏のほどを知らされた。(そんな状況のなかで、ぼくを大学へまで行かせてくれたのは姉である。) ぼくの半生の中で最もやりきれなくつらい日々であった。母の頭が目に見えて白くなってきたのはその頃のことだ。母は相変らず黙々と家事をつづけた。

 敗戦後20年、ぼくの家庭もいくらか余裕がでてきて、兄(二男)と姉(二女)は遅くはあったがそれぞれ結婚した。次の兄と姉が家計を担い、貧乏の中にも拘らず大学まで行かせてもらったぼくも職についた。父も母も年以上にすっかり老いていた。その年父が死んだ。徐々に疲労と心労を重ねてきた母は、それを追うように、持病のぜんそくを悪化させ結核を併発して翌年入院した。髪はもう真白で、生活の苦労を深く刻んだ顔も家事と育児ばかりで忙しかった身体もずいぶん小さくなったようだった。
 最後に母に会ったのはぼくだった。勤めの帰りに見舞に寄った。母は数日前から酸素吸入をしていて会話は大儀そうだったので進んで話しかけることはしなかった。ひどく衰弱していたが、今日明日ということはないだろうと思った。母は「兄弟仲よくね」と言っただけで、あとは天井の一点を見つめるばかりで無言だった。それに答えることもできず、ぼくも黙ってただ側に坐っているほかなかった。
 翌日の夕刻、十人の子を生み、四人の子と夫に先立たれ、泣きごと一つ言わずに黙々と家庭を守り子を育ててきた母、愚直でいちずな生涯を送った典型的な庶民の母、ぼくの母は小さな白い病室でだれにも見とられずひとり淋しく死んだ。子供たちの間にのこしたわだかまりに最後まで心を痛めて。ぼくらは親不孝な子だったようだ。

 天下国家のことにたずさわることと、一人の子を育てることとどちらが重いか、断じて同じである、といったのは小林秀雄だったか。この断定をぼくは諾う。否、母の事業の方が重いと言おう。母の死により、雑多な観念でごちゃごちゃなぼくの内部で何かが始まった。自らの生存の根拠が見え初めた。
 あの時母は病室の天井に何を凝視していたのだろうか。あの長い沈黙はどんなことばでいっぱいだったのだろうか。ぼくは母が凝視したものを見なければならない。ぼくは母の沈黙を聞かねばならない。

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 白髪がばらりと顔面にたれ、凄惨な表情で機動隊員につれだされるよねさん。新聞に報道されたよねさんの写真、その十糎四方ほどの写真一杯にあふれているよねさんの全生涯をぼくははっきりと見た。ぼくはその生涯を畏怖し、胸が熱くなり戦慄した。
 『代執行がはじまると、よねさんは脱穀機のエンジンをかけ、稲こきをはじめた。報道陣のカメラの放列にとり囲まれ、始終無言だ った。機動隊員に連れ出されそうになり、地べたに寝ころんだ。寝ころんでも無言だった。手足をかかえられ、自宅から遠ざけられる間も一言もしゃべらず、ただ機動隊員をカッとにらみつけていた。』(朝日新聞より)
 これはもうほとんどぼくの母である。

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<ふるさともとめて花一匁>

数千年の眼孔の堆積は巨大な穴となり
穴の上に塔は立つ バベルの。
生れおちた土地で生れおちた時から
ぼくはその世界の異邦人だったと気づいた。
今は少女たちの遊戯のように
手をつなぎ声を合せてうたうことを望んではならぬ。
ひとり立つためにひくくつぶやけ。
死者たちの見ひらかれた眼孔が
静かに閉じられるために
死者たちが真の死を再び死んで
ぼくのふるさとへの愛の
肥沃な土壌となりうるために
虚構の世界はまず
ぼくの中で廃墟であらねばならぬ。
廃墟の世界を掘りおこし
ふるさともとめて醒め続けるために
ぼくの言葉は自らのこころに苦しく刺す
ついに咲かぬかも知れぬ茨の花一匁。
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