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403 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(55)
激動の朝鮮半島(7)―「高句麗好太王碑」(2)
2005年11月22日(火)


<4> 国境
 永楽九年(399)己亥、百残は太王への誓いに違(たが) い、倭と和通した。そこで太王 は平壌に巡下した。そこへ新羅が使を遣わしてきて太王のもとに訴えてきていう には、「倭人がその(新羅と倭の)国境に満ち、城池を潰(こわ)し破り、高句 麗の『奴客』であるわたし(新羅王)の民を(倭の)従属民としています。わた しは太王に帰属し、その命に従いたいと思います」と。
 太王は新羅王の忠誠を受け入れた。そして自分がその訴えを聞き入れたことを 新羅王に報告させるため、新羅の使を本国へ遷した。

 ここで言われている「国境」が「新羅と倭国との国境」であることはその文脈から 明らかだ。何の先入観も持たずに読む限りそのようにしか読めない。
 それは「朝鮮半島内にも、倭国の領域はひろがっていた」ことを語っている。 このことは『三国志』の東夷伝でくりかえし説かれたところと一致する。

①韓は帯方の南に在り、東西海を以て限りと為し、南、倭と接す。(韓伝)
②(弁辰)其の涜盧国、倭と界を接す。(韓伝)
③(郡より倭に至るに)…‥其の北岸、狗邪韓国に到る。(倭人伝)
④倭地を参問するに、……周旋五千余里なる可し。(倭人伝)

 『三国志』では「倭国」とは、朝鮮海峡という一衣帯水の海の「両岸」にまたがる国家 であった。もちろんヤマト王権が支配する国ではない。倭国の都は、一衣帯水の海の「南岸」 にあったのだ。博多湾岸だ。九州王朝の都である。
 この三世紀の国家関係が、大わくにおいてそのまま四世紀末、五世紀初頭まで連続されて いることを好太王碑の「国境」が示していることになる。つまり、高句麗・新羅と熾烈な 戦争を行っていたのは九州王朝であった。

<5>守墓人

 国岡上広開土境好太王は存命中、教えて次のように言っておられた。「祖王・先王は、 但(ただ)遠近の旧民だけをえらんで、守墓・洒掃(掃除)をさせておられた。 (これに対し)わたしは旧民の能力が転(うた)た劣っていることを心配し、もしわたしの 万年のちも安らかに墓を守ろうとするためには、但(ただ)、わたしがみずから軍を率いて 攻略してきたところの、韓・穢の民を使って洒掃の役にあてさせるのがいいと思う」と。

 守墓人として使役された「韓・穢の民」は奴隷とされた被征服地の民いわゆる「生口」であ る。
 好太王碑は「勲績碑」だから、はなばなしい戦果を書き連ねている。「任那・加羅」 を制圧下に置いたという記事もある。しかし、上記の「生口」には「任那・加羅」の民は入ってい ない。この件について古田さんは次のように読み解いている。

高句麗軍はいったんは「任那・ 加羅」を征圧下においたのである。
(中略)
 しかるに後半の「守墓人」の段になると、「任那・加羅」は、その守墓人の地に入れられ ている形跡がない。また「安羅」も、その名が出ていない。――ということは、これらの地 帯は結局、高句麗軍の支配下に入らなかった。いいかえれば、結局、高句麗軍はこれらの地 から撃退された。翻せば、最後はこの地帯では高句麗軍は倭軍とその同盟軍に敗退したこと が(全体の構文の中に)実は暗示されている。
 けれどもこの石碑は「勲績碑」であったから、それらの敗退戦については、ここに刻され ていない。――そのように理解すべきであるように、わたしには思われる。
 このような理解は、次の史実の光を混迷の暗影の中にクツキリと浮かび上らせる。――の ちの「任那日本府」「安羅日本府」の地は、好太王の遠征軍を撃退し、倭国軍に属する地と して(六世紀中葉までは)保全された。この重大な帰結である。

 それでは次の「神功紀」の説話は好太王碑の記録とどのように関わるのだろうか。
(神功摂政四十九年)春三月、荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を以て将軍と 為す。即ち久?(てい)等と、共に兵を勒(ととの)へて度(わた)り、卓淳 (たくじゅん)国に至りて、将(まさ)に新羅を襲(おそ)はむとす。時に或(あるひと) の曰く「兵衆少くぱ、新羅を破る可からず。更復(また)、沙白(さはく)・蓋廬(かふろ) を奉り上げて、軍士を増さむことを請ふ」と。即ち木羅斤資(もくらこんし)・沙沙奴跪(ささぬき)(是の二人は、其の姓を知ら ざる人なり。但(ただ)し木羅斤資は百済の将なり。)に命じて、精兵を領(ひき)ゐて、 沙白・蓋廬と共に遣はしき。倶に卓淳に集ひて、新羅を撃ちて破る。因りて、比自?(ひしほ)・南加羅・?(とくの)国・安羅・ 多羅・卓浮・加羅、七国を平定す。仍(よ)りて兵を移して、西に廻りて古奚津(こけいのつ)に至り、南蛮の 忱彌多礼(とむたれ)を屠(ほふ)って百済に賜ふ。
 是に、其の王、肖古及び王子貴須(くゐす)、亦軍を領(ひき)ゐて来会す。時に比利・辟中 ・布彌支(ほむき)・半古(はんこ)の四邑、自然に降服しき。
 是を以て、百済の王父子及び荒田別・木羅斤資等、共に意流村(おるすき)(今、州流 須祇(つるすき)と云ふ。)に会ひぬ。相見て欣感す。礼を厚くして送り遣はす。唯、千熊 長彦と百済の王とのみ、百済国に至りて、辟支山(へきのむれ)に登りて盟(ちか)ふ。復(また)古沙山(こさのむれ) に登りて、共に磐石の上に居す。
(中略)
即ち(百済王)千熊長彦を将(ひき)ゐて、都下に至りて厚く礼遇を加ふ。亦久?等を副(そ) へて送る。
(「?」はテキストファイルでは表記できない漢字です。)
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