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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
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【大政翼賛会の変貌】

 神武天皇の即位日とされ戦前「紀元節」と呼ばれた国民の祝日がありました。呆れたことに「建国記念の日」と言い換えられていますが、この祝日が戦後にも受け継がれています。
 私は「呆れたことに」と書きましたが、ネット検索をしてみましたらこの物言いに怒りそうな人が沢山いるのでびっくりしました。しかし、『真説古代史・近畿王朝草創期編』を書いた私は、やはり「呆れたことに」としか言いようがありません。

 何だか可笑しな書き出しになってしまいましたが、実は今回は「紀元節」から論説が始まります。

 なお、前々回あたりから「観念右翼」という今まで知らなかった言葉が出てきましたが、念のためブリタニカ百科事典の解説(https://kotobank.jp/word/観念右翼)を転載しておきます。
『特定の右翼党派ではなく,純粋な日本精神主義を思想や行動の原理とする諸団体。上杉慎吉をその源流とする。第2次世界大戦前の右翼運動を思想形態から分類すると,国家社会主義派 (組織右翼) と日本精神主義派 (観念右翼) に大別される。』

 では本題に入ります。

1940年2月10日  「紀元二千六百年記念式典」挙行

 これは大政翼賛会の結成から約1ヵ月後のことです。この式典が日本領土内はもとより中国の占領地においてまで盛大に挙行されたのでした。部落会・町内会等や官製国民運動団体などを通じて、大規模な人民動員がおこなわれた結果でした。かくて天皇制イデオロギーによる人民統合は成功したかにみえました。が、しかしその裏で、大政翼賛会に不満をもつ諸勢力の翼賛会攻撃がはじまっていました。この攻撃は次のように展開していきました。

 「観念」右翼の団体は、翼賛会を「幕府政治の再現」であると非難し、有馬翼賛会事務総長・後藤組織局長・風見法相ら近衛側近グループを「赤」であると攻撃した。
 その理由は、有馬が大正末期から農民運動などを支援する進歩派として異端視されていたこと、後藤と風見が近衛のブレーン・トラストであった昭和研究会に所属し、同研究会に左翼転向者や社会民主主義者が含まれていたこと、翼賛会の一部に財産奉還論を唱えるものがいたことにあった。

 「観念」右翼の翼賛会攻撃は、「10月下旬頃に至り特に顕著となり」、12月になると彼らは有馬事務総長の除名・退陣決議をおこなうなど、翼賛会精動化の尖兵の役割をはたした。

 内務官僚は翼賛会と地方行政機関との対立を恐れ、翼賛会を精動化させて行政補助機関化することをめざしていた。政党人は、いったんは翼賛会に政治力の結集を期待したが、その期待が裏切られると一転して翼賛会の精動化を唱えだし、12月20日には翼賛会との表裏一体を表看板に翼賛議員倶楽部(435名の代議士が参加し、不参加者は5名)を結成して独自の方向へあゆみだした。

 これにたいして財界は、大政翼賛会の結成には賛成していた。しかし企画院が立案した「経済新体制確立要綱」が2月12日の経済閣僚懇談会に付議されると、財界は官僚統制の排撃と「自主統制」の貫徹を叫び、小林一三商工相を先頭に猛烈な反対運動を展開した。
 もめぬいたすえ、数度にわたる改訂をへて12月7日に決定された「要綱」は、「企画院を中心とする革新官僚と、財界との間の妥協の産物」であったが、その間財界は「観念」右翼に便乗して翼賛会にたいする「赤」攻撃をくりかえした。

 一方、大政翼賛会成立の前後から翼賛会違憲論が高まってきた。
 口火を切ったのは佐々木惣一であった。彼は、大日本帝国憲法の原則から判断して、首相が総裁を兼任する翼賛会は「幕府的存在」となる恐れがある、翼賛会は私的団体であって政事結社であり、これに官吏が参加しその経費を国家が負担する法的根拠はどこにあるかと批判した。
 また枢密院でも原嘉道議長以下、金子堅太郎・鈴木貫太郎・石井菊次郎らは
「憲法上幾多ノ疑念アリトシテ最モ反対的意見強シト伝へラ」
れ、荒木貞夫は
「新体制ハ国体二反スルモノナリトノ見解ノ下二参議ヲ拒絶セリ」
というありさまであった。

   翼賛会の性格論争は、12月16_18日の臨時中央協力会議でも展開され、入江種矩が翼賛会存立の法的根拠および治安警察法との関係、国家からの補助金支出の根拠などについてただし、土屋忠が総裁の首相兼任と天皇大権事項との抵触の有無を問い、窪井義道が再度翼賛会存立の法的根拠、翼賛会と政党との相違点などについて質問し、船田中翼賛会内政部長らをするどく追及した。

 総攻撃に耐えかねた近衛首相は、12月21日、閣内にあって新体制運動の中心的推進力となっていた風見法相と安井内相とを更迭し、代わって皇道派の柳川平助陸軍中将を法相に、「観念」右翼と内務・司法官僚の巨頭である平沼騏一郎元首相を内相に起用した。
 近衛は「陸軍と手を組んだ末次・中野一派のナチ化運動」を排撃するため内閣改造にふみきったとのべているが、この改造は翼賛会精動化の第二歩となったのである。

 反対勢力の集中攻撃は、第七六議会で頂点に達した。衆議院では川崎克・尾崎行雄ら、貴族院では岩田宙造らが違憲論をひっさげてはげしく政府を追及した。その結果、1941年1月28日の衆議院予算委員会で、ついに近衛首相は議会終了後に翼賛会を改組するとの言質をとられたばかりでなく、平沼内相も翼賛会が公事結社であると言明し2月8日の同委員会ではあらためて政府の統一答弁がおこなわれ、翼賛会が公事結社であることが最終的に確認された。
 大政翼賛会による強力な「国民政治力の結集」 の企図は、ここに完全に挫折したのである。

 改組問題をめぐっても各勢力は衝突した。政党人は議会局の廃止・調査委員会制度の採用および翼賛会役員への政党人の登用を強く要求し、「観念」右翼は有馬・後藤らの退陣をせまり、内務官僚は翼賛会全体にたいする自己の主導権確保を主張した。
 これにたいし軍部は、改組のさいの新人事は親軍的人物をもってあてることが絶対の条件であると近衛に申し込み、「革新」右翼は翼賛会の精動化に反対して軍部の意見に同調した。

 こうしたなかで有馬事務総長以下の翼賛会本部事務局員全員が辞表を提出し、4月2日に第一回改組がおこなわれた。
 国務大臣による副総裁制の新設、調査委員会制度の採用、本部機構の簡素化、東亜局と中央訓練所の新設、道府県支部長の知事による兼任が実施され、人事異動では有馬・後藤らの近衛側近グループが本部事務局から一斉に姿を消し、かわって副総裁に柳川法相、事務総長に石渡荘太郎元蔵相、総務局長に熊谷憲一元内閣情報部長、組織局長に挟間茂元内務次官らが就任した。
 大政翼賛会の主導権は、近衛側近グループから内務官僚と警察の手へ完全に移行した。内務官僚出身の貴族院議員藤沼庄平は、4月3日の日記に「愈精動化した」と書いてこの改組を歓迎した。
 かくてこの改組こそ、翼賛会精動化過程における最後の決定的転換点であり、大政翼賛会にのこされた道は内務官僚と警察が指導する行政補助機関化することだけであった。

 大政翼賛会の改組に不満をもった各勢力は、公然と独白の行動をとりはじめた。翼賛会の精動化に失望した軍部は、青壮年の自発性喚起をくわだて、大政翼運動の実践部隊として大日本翼賛壮年団を育成する方針をとりはじめた。
 同じく期待を裏切られた「革新」右翼の中野正剛と橋本欣五郎は常任総務を辞任し、中野は新体制運動のなかで思想団体(公事結社)振東社に攻撃れていた東方会を政事結社に再改組し、独自の政治活動にのりだしていった。
 また政党人は、議会局の廃止とともに翼賛会との有機的関係を断ち切ったまま衆議院議員倶楽部を翼賛議員同盟に改組する方向へすすんでいった。
 こうして大政翼会の精勤化により支配層内部の矛盾は解決されず、人民の自発性喚起という課題もまた解決されずにおわったのである。

 その後太平洋戦争が勃発し、大政翼賛会の精動化がさらにすすむなかで、東条内閣は、一方では1942年4月30日に二一回衆議院議員総選挙を実施して翼賛議会体制の確立をはかり、他方では同年6月24日官製国民運動六団体(大日本産叢国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本婦人会・大日本青少年団)を大政翼賛会の傘下に統合し、8月14日には従来の推進員を廃止して部落会・町内会に大政翼賛会の世話役を、隣保班・隣組に世話人をおくことを決定した。
 人選にあたっては部落会長・町内会長と世話役を、隣保班長・隣組長と世話人とをそれぞれ一致させる方針がとられ、ここに約154万名(部落会・町内会数約21万、隣保班・隣組数約33万)の世話役と世話人が誕生し、形式的には人民支配組織の一元化が達成された。
 そして1945年6月13日、大政翼賛会は解散し、国民義勇隊へ発展的解消をとげたが、この国民義勇隊こそ本土決戦段階における人民の根こそぎ動員の中核組織であり、生産と防衛とを直結し、かつ戦闘隊へ転化した場合には統帥部による直接の人民支配が実現することになった。
 「国民義勇隊の活撃こそ正に大政翼賛運動の延長であり発展に外ならぬ」といわれたように、国民義勇隊は大政翼賛会精動化の到達点であった。

 最後に大政翼賛会成立の意義と特徴を概括すると次のようになる。

 第一、
    大政翼賛会は、「大東亜共栄圏建設」をスローガンとする日本帝国主義の「生存圏」獲得のための「高度国防国家」=侵略的な国家総力戦体制の中心組織として紹成された。したがって翼賛会は、日独伊三国同盟という国際的な反共ファッショ枢軸の一環に組みこまれた政治体制であり、それに対応した日本ファシズムの外交原理が「皇道外交」であった。

 第二、
    大政翼賛会はすべての政治結社を解散させ、天皇制イデオロギーにもとづく事実上の一国一党的政治体制として出現した。その事実は、大日本帝国憲法がもつ立憲主義的側面が否定され、行政補助機関的な翼賛会の出現によって、行政権の肥大化が極限に達し、同時に上からの天皇制の官僚支配の貫徹による画一的な人民把握の体制が成立したことを意味していた。換言すれば、天皇は軍部と官僚、とりわけ軍部の主導権のもとに戦争と国際政治の圧力を直接の促進剤としながら、上からファッショ的体制に再編成され、大政翼賛会の結成をもって日本ファシズムは体制として成立したのである。こうして天皇制は、支配階級の特定のグループ、とりわけ議会や既成政党などにたいする相対的に独自な役割を保持しつつ、階級的には資本家と地主、とりわけ独占資本の階級的利益を最大限に擁護するファッショ的権力として人民のうえに君臨することになった。

 第三、
    人民支配の側面からみた場合、ドイツ・イタリアのファシズムのように人民統合が下からの国民運動にささえられて実現するのではなく、もっぱら上からの天皇制の官僚支配の強化として実現したところに日本ファシズムの特徴があった。そのことは、国民再組織論の提起から大政翼賛会の精動化による近衛新体制構想の挫折にいたるまでの政治過程のなかにはっきりと示されており、人民は内務官僚と警察が指導する部落会・町内会等と各種の官製国民運動組織をつうじて画一的なファッショ的支配をうけることになった。人民の自発性喚起という主張は、天皇制の官僚支配の貫徹のまえに圧倒されておわったのである。

 第四、
    大政翼賛運動の指導理念については、国民再組織論が否定されたかわりに、「万民翼賛、一億一心、職分奉公」が強調され、「臣遺実践体制の実現」が運動の目的とされた(「大政翼賛運動規約」)。とくに「職分奉公」が重視され、人民を生産活動へかりたてるスローガンとなったが、基本的には精動的理念が貫徹していた。

 第五、
    大政翼賛会の成立にもかかわらず、支配層内部の矛盾を解決して極力集中を実現することはできなかった。その理由は、なによりも新体制運動が挙国一致内閣的な寄合世帯という政治的・組織的枠組を打ち破り、ひいては天皇制国家機構を改革する理論と行動力をもちえなかったところにあった。

 かくて日本ファシズムは、人民統合と権力集中の両面にわたって自己の脆弱性を克服することができず、その崩壊の日までこれらの問題の解決をめぐって苦悶しつづけなければならなかったのである。

 以上で「日本ファシズム論」を終わります。が最後に寝言を一つつぶやいておきます。

「日本ファシズム体制形成への様々な局面でその推進に大きく関与してきた観念右翼は大東亜戦争の敗北後も生き延びさらにその勢力を拡大してきている。そしてその観念右翼の下で大東亜戦争の敗北と共に崩壊したはずの日本ファシズムが現在再生しつつある」
 と主張したら、「何を寝惚けたことをおっしゃる」と、今は歯牙にも掛けてもらえないだろうと思っていますが、それでももう少し勉強を重ねて、「いつか取り上げてみたいなあ」と寝惚け続けています。
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