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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(43)

大日本帝国の住民抑圧政策(10)

日本ファシズム論(9)



【ファシズムの末端構造】

        『日本ファシズム論(2)』で、国民精神総動員運動の末端機構について取り上げました。その時の末端機構を利用しながら、大政翼賛会の末端機構が次のように整備されていきました。

 大政翼賛会の成立に対応し、部落会・町内会等の整備、大政翼賛会支部組織の結成および官製国民運動団体の再編成という三つの方法によって、日本ファシズムの末端機構が急速に整備されていった。

 部落会・町内会等は内務官僚と警察の指導のもとに国民精神総動員運動の末端機構として利用されていたが、十戸内外の隣保組織(隣保班・隣組)は同時に防空演習のさいもっとも活動しやすい家庭防火活動単位として位置づけられていた。
 しかも1939年末以降に生活必需品の配給制が実施されるにともない、部落会・町内会等は物資配給機構としても重視されていた。部落会・町内会を「上意下達」の行政補助機関と考え、国民再組織論に反対していた内務官僚は、新体制準備会の席上、大政翼賛会の道府県支部長を知事の兼任とすることを強く主張したが、「革新」右翼の反対によって支部長の選任が未決定におわる見通しとなったため、内務省は9月2日「部落会町内会等整備要領」を発表し、大政翼賛会の地方支部組織とは別個に部落会・町内会等を整備・強化して国民組織にたいする自己の主導権を固守しようとはかった。
 その結果、9月30日までに約19万9000の部落会・町内会と約120万の隣保班・隣組が整備され、さらに1941年4月には部落会・町内会は約21万に増加した。

 かくて人民は、一方では各地域の名望家支配とむすびついた部落会・町内会等の組織によって内務官僚と警察の直接的支配下におかれ、他方では日常生活を互いに監視させられるばかりでなく、生活必需品の配給・防火・防犯・その他の国策協力組織として機能するこれらの組織をはなれては生活することができなくなった。その意味において、部落会・町内会等こそ戦時体制下におけるファッショ的官僚支配の背骨をなすものであった。

 大政翼賛会の地方支部組織については、道府県・六大都市・郡・市区町村に各支部をおき、「下情上通」のための機関として中央に中央協力会議を、各段階の支部にそれぞれ協力会議を付置することがきめられたが、道府県支部長は当分置かず、常務委員がその職務を代行することになった。しかし知事は常務委員として委員会を主宰することになったので、内務官僚の主導権は実質的に確保された。

 こうして1940年12月中に道府県支部が結成されるとともに476名の常務委員が近衛総裁から委嘱され、1941年2月には結成支部数が郡支部502、市支部175区支部82、町村支部1万0322に達し、1町村5名内外、合計約5万名の推進員が全国に配置されたのである。

 このように大政翼賛会は、国民運動組織としての外観をあたえられたが、支部長などの役員選考はすべて警察が極秘のうちにおこなっており、多くの郡市区町村支部長には町村長会の会長や市区町村長が就任した。そのため後藤隆之助組織局長は、12月15日の支部代表者会議で
「現在までに推薦して来た郡市区町村支部長の顔触れでは、世間は必ず新味の乏しい旧体制の人物と見、あるいは憤慨し、あるいは失望するであろう」
と批判せざるをえなかった。
 しかも新体制批判の言論取締りは、8月24日の内務省警保局長の通牒によって厳重におこなわれており、地方支部組織にたいする内務官僚と警察の主導権はまぎれもない事実であった。

 表面は華やかに展開された新体制運動も、その内部における形骸化はおおうべくもなく、それはやがて大政翼賛会の地方支部組織が地方行政組織と一体となり、翼賛会が完全な行政補助機関化することを予測させるものであった。

 新体制運動の高揚は、従来からあった官製国民運動団体の再編・統合を促進させた。1940年11月から翌年1月にかけて商業報国会・日本海運報国団・大日本産業報国会・大日本青少年団などが結成され、大政翼賛会の組織局がそれら諸団体との連絡指導にあたり、企画局が経済団体と文化団体の再編成を指導することになった。しかしこれらの諸団体は、いずれも警察取締り的性格がわざわいして人民の自発性喚起という問題を解決することができなかった。たとえば大日本産業報国会の支部の実態は、1940年2月30日現在で支部数1181、支部長のうちわけは警察署長971名、民間人210名であり、ここでも内務官僚と警察の主導権は確立していた。そのため産報運動は支配者が期待したほど盛り上がらず、1941年3月には「職場実践組織」としての産報青年隊の結成が指示され、これを契機に産報会は軍隊的編成による労働者統轄組織に変貌していったが、1942年後半になっても「産報不振を云々する論議が活発に展開された」という状態であった。

 かくて天皇制支配体制のファッショ的再編成のなかから国家総力戦体制の中心組織たる大政翼賛会が結成され、それに対応して内務官僚と警察の指導のもとにファッショ的人民支配の末端機構が構築されていったのである。

 このようにして天皇制支配体制下の日本ファシズムが全国の隅々までを席捲するに至ったのですが、その推進母体である大政翼賛会はどのような変貌を遂げながら敗戦を迎えることになったのでしょうか。次回はその「大政翼賛会の変貌」がテーマです。
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