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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(42)

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【大政翼賛会の成立】

 近衛文麿の新体制構想の実現で絶対的な影響力を発揮しようとする軍部と、近衛文麿に取り入ろうとする政治家集団の暗闘が「大政翼賛会成立」の原動力でした。そこでは「自律的に盛り上がる国民政治力の結集」など全くの絵空事でした。

 では「大政翼賛会の成立」までの経緯を読んでいくことにします。

 近衛文麿の出馬声明は、新体制運動を高揚させるとともに、陸軍内部の倒閣気運を高めた。陸軍は、軍部大臣現役武官制を利用して倒閣運動をおこし、1940年7月26日、米内内閣は総辞職に追いこまれた。

 翌17日、重臣会議の推薦により組閣の大命は近衛に降下し、22日に第二次近衛内閣が成立した。しかし近衛が企図した最高国防会議の設立は実現せず、1938年1月から中断したままになっていた大本営政府連絡合議が複活したにとどまり、国務と統帥の矛盾はいっこうに解決されなかった。

 近衛内閣の基本方針の大綱は、前例のない方法で定められた。
 すなわち近衛は5月26日の木戸・有馬との「申合せ」の線にそい、組閣まえの7月19日、東条英機陸相・吉田善吾海相・松岡洋右外相の三閣僚候補者を私邸にまねいていわゆる荻窪会談をひらき、「戦時経済政策ノ強化確立」のほか対外政策として、
(一)「日独伊枢軸ノ強化」、
(二)日ソ不可侵協定の締結と対ソ軍備の充実、
(三)「英仏蘭葡殖民地ヲ東亜新秩序ノ内容二包含セシムルタメノ積極的処理」の実施、
(四)東亜新秩序建設にたいするアメリカの干渉排除という政策の大綱
を決定した。そしてこの大網は、7月26日の閣議決定による「基本国策要綱」と翌27日の大本営政府連絡会議決定による
「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」
となって具体化され、第二次近衛内閣の基本方針となったのである。

 「基本国策要綱」は、
 「世界ハ今ヤ歴史的一大転機二際会シ数個ノ国家群ノ生成発展ヲ基調トスル新ナル政治経済文化ノ創成ヲ見ントシ」、
 これが「世界史発展ノ必然的動向」であるという独断的な国際認識に立脚し、
 「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一字トスル挙国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在り」、
としていた。、
 そこにはナチス・ドイツの「生存圏」理論と同じように、ファシズム諸国による世界再分割を世界史上の「一大転機」「必然的動向」と捉える国際認識があり、従来の「東亜新秩序」よりもさらに広大な「大東亜ノ新秩序」建設の野望を「肇国ノ大精神」によって合理化しているだけでなく、従来から外交文書に常用されていた「帝国」という用語をあえて「皇国」とおきかえるなど、日本主義イデオロギーが前面に押しだされていた。、
 さらに「要綱」は、「大東亜ノ新秩序ノ建設」という「新事態ニ即応スル不抜ノ国家態勢」=「国家総力発揮ノ国防国家体制」の完成のための具体策として、「強カナル新政治体制ヲ確立シ国政ノ綜合的統一ヲ図ル」こと、「国防経済ノ根基ヲ確立ス」ることなどの諸項目をかかげていた。

 これに対し「時局処理要綱」は、具体的な外交方針として日独伊三国同盟の締結と南方武力進出とを決定していたが、それらは9月23日の北部仏印進駐と9月27日の日独伊三国同盟調印となって実現した。
 その間8月1日、松岡外相は談話のなかではじめて「皇道外交」と「大東亜共栄圏の確立」という言葉を使用し、以後これが日本帝国主義の基本的対外政策を表現する公式のスローガンとなったのである。

 これら二つの「要綱」と松岡談話のなかで示されたものは、
 「八紘一宇」の「肇国ノ大精神」という特殊日本的原理を普遍化することによって「大東亜共栄圏」の建設をはかるという日本主義=皇道主義の理念である。
 「これはイデオロギーの面から見るならば1938年2月の東亜新秩序声明にはじまる〈皇道外交〉の完成形態」であった。
 しかも「皇道外交」の帰結として調印された日独伊三国同盟は、日独伊ファシズム三国が世界の軍事的再分割による「生存圏」獲得のために締結した反共的・侵略的軍事同盟であった。
 そして大政翼賛会は、このような侵略戦争を推進するための政府主導による「強力ナ新政治体制」=国家総力戦体制の確立、すなわち天皇制支配体制のファッショ的再編成の結果として結成されるべきものであり、それはなによりも当時の国際情勢に強力に規定され促進されつつ、日独伊三国同盟に照応した特殊日本的ファシズム体制として成立することになるのであった。

 こうして内外政策の全面転換がおこなわれ、事態は近衛が心中ひそかに考えていた軍部の抑制による日中戦争の解決という方向とは、まったく逆の方向へ急速に動いていった。

 事態は近衛の意図する方向とは全く逆の方向に進んでいったにもかかわらず、近衛の再登場は国民から圧倒的な人気をもってむかえられました。それは何故なのでしょうか。その要因の一つとしてまず天皇制体制の下での洗脳によって国民に浸透していったイデオロギーが考えられますが、勿論それ程単純ではありません。

 彼の人気の秘密は、第一に彼が天皇家にもっとも近く、しかも心情皇道派的な適度の「革新」思想の持ち主であったこと、第二に西園寺の信任をえていたこと、第三に近衛篤麿の子として大陸経営にも関心をもっていたこと、第四に知識人、とりわけジャーナリズムから支持されていたこと、第五にいわゆる「聞き上手」によって面会者に彼を自分への賛同者・理解者と思い込ませる独得な人柄などによるものであり、彼に面会した人はいずれも「近衛の「無個性」の中に思い思いの新体制の幻想を投映していた」のである。また近衛の人気とともに「新体制」は一躍流行語となり、「政治新体制」から「家庭新体制」まで社会のあらゆる分野における「革新」のスローガンとして浸透し、解決のめどのない戦時体制の重圧に苦しむ人民の多くは、「近衛新体制」に莫然とした現状打破の幻想を託したのであった。

 近衛ブームは新体制運動の推進に大きなエネルギーを提供し、支配層は先をあらそって新体制へのなだれこみを策した。とくに政党は、「バスに乗りおくれるな」を合言葉にあいついで解散していった。まず7月1日に赤松克麿らの日本革新党、6日に社会大衆党、16日に政友会正統派、26日に安達謙蔵らの国民同盟、30日に政友会「革新」派がそれぞれ解党した。たちおくれていた民政党では、町田総裁の態度にあきたりない永井派の代議士40名が7月25日に脱党して解党を宣言し、のこる町田派も時流に抗しえず、8月15日に解党した。ここに全政党が解散し、いわゆる無政党時代が出現するにいたった。
 字垣一成は、8月1日の日記のなかで当時の状況と雰囲気を
「盲目的に此大勢便乗を政治家の仕事の様に考へて居る連中が其辺に累々として存在してある。最近流行の新体制運動も此類に近き様なる感じがする」
と評していた。

 近衛の新体制構想は、新体制準備会の発足によって具体化した。
 8月23日に発表された準備委員は、貴族院5名・衆議院7名・学界1名・財界2名・外交界1名・「革新」右翼3名・「観念」右翼1名・地方自治団体1名・言論界4名および閣僚会員であった。それはまさに呉越同舟・同床異夢・勢力均衡の人選であって、支配層丸抱えというにふさわしい顔ぶれであり、有馬頼寧は8月22日の日記に「準備委貝の顔ぶれを聞き失望す」と書かざるをえなかった。

 8月23日、近衛首相は第一回準備会の冒頭に声明文をよみあげたが、それは国務と統帥の調和・政府部内の統合と能率の強化・議会翼賛体制の確立などの政治目的を羅列すると同時に、新体制運動が国民の自発性にもとづく「国民運動」であって単なる「精神運動」ではなく、また「高度の政治性」を有しながらも「政党運動」ではないことを強調し、とくにナチス的一国一党論を強く排撃していた。ちなみにその声明文は矢部貞治が起草し、武藤軍務局長に見せたところ、武藤が一国一党を否定した部分を全部削除したため、富田健治内閣書記官長が狂信的「観念」右翼の蓑田胸喜をひそかに招致して校閲をうけ、武藤の削除部分を復活・修正してできあがったものであり、近衛らはまず「観念」右翼からの新体制=「幕府」攻撃を回避しようとしたのであった。

 新体制準備会の紛糾を避けるため、近衛は多数決原理にかわる「衆議統裁」という新しい運営方式を採用し、委員全員に協力の「誓」に署名させてから会議にのぞんだ。その結果、6回にわたる準備会(8月28日_9月17日)は、ともかく破綻せずにおわったが、準備会では各勢力の意見が正面からぶつかりあい、つぎのようなきわめて深刻な内容をもった論争が展開された。

第一、新体制と軍部との関係について、
 軍部は新体制を全面的に支援するが「統帥上独自の存在」であるから一般の現役軍人が新体制に参加することはできないとの態度を表明したため、新体制による軍部の抑制という近衛らの意図は挫折した。
第二、新体制の基本的性格とその「中核体」の構成員について
 近衛が「中核体」に強力な「政治力、実践力」をあたえることを力説し、ナチス的一国一党論を唱える軍部と中野正剛・橋本欣五郎らの「革新」右翼がこれを支持した。同志的結合による親革新党をめざす金光庸夫・秋田清らの政党人もこれに同調し、「中核体」を「会員組織」として治安警察法にいう政事結社とすべきであると主張した。これにたいし精動的官製国民運動を主張する井田磐楠らの「観念」右翼と内務官僚の意を体した岡崎勉がこれに反発し、「会員組織」は会員・非会員という形で国民を分断するものであると反論した。その結果、新体制運動は「大政翼賛運動」、「中核体」は「大政翼賛会」と呼称され、いずれも「公的・挙国的のもの」であるから大政翼賛会は「部分」をあらわす政党=政事結社ではないことが確認されたが、公事結社とも断定されないまま問題をあとに残し、構成員については同志的結合論と国民運動論とを折衷させ、運動参加者は「全国民」であり、構成員は総裁が「指名する」ことが決定された。しかし政府が、大政翼賛会への団体加入を認めず、すべての政事結社の解散を要求したため、翼賛会は事実上の一国一党を体現することになった。
第三、綱領草案は
 大東亜新秩序の建設と世界新秩序の確立、国体の本義の顕揚と庶政一新および国防国家体制の完成、大政翼賛の臣道実践の三ヵ条にまとめられた。

 こうして新体制準備会は、各勢力の意見を折衷させながら一応の結論をだすことに成功し、その過程をつうじて明白になったことは、第一に近衛新体制構想は後退したが、近衛総裁の大政翼賛会構成員にたいする指名権の確保によって近衛グループの主導権がかろうじて確保されたこと、第二に軍部と「革新」右翼が提携して事実上の一国一党の出現に成功したこと、第三に立場こそちがえ「観念」右翼と政党人が大政翼賛会に不満をもったこと、すなわち「観念」右翼は事実上の一国一党の出現に敵意をいだき、政党人は大政翼賛会議会局に押しこめられたことにたいし憲法上の疑義を表明して不満を内訌させたことなどであった。

 一国一党論と精動的官製国民運動論が激突するなかで、近衛の新体制構想は後退をよぎなくされていたが、その後退は10月12日の大政翼賛会発会式の席上で決定的なものとなった。
 近衛と有馬は、その日の午前2時ごろまで宣言と綱領の作成に没頭したがついに考えがまとまらず、発会式で挨拶にたった近衛は、富田内閣書記官長が即席に書いた短い草稿を手に、大政翼賛運動の綱領は「大政翼賛の臣道実践」の一語につきるとだけのべて降壇してしまった。宣言と綱領の発表を期待していた会衆は「唖然」とし、「これに拍手を送ったのは観念右翼だけであった」。

 かくて大政翼賛会は、日本主義国体諭を前面に打ちだし、大東亜共栄圏建設を推進するためのファッショ的政治体制の中心組織として結成され、ここに日本ファシズムは体制として成立した。
 そして近衛の豹変ぶりは、「観念」右翼の唱える日本主義国体論にたいする近衛の屈服であるばかりでなく、大政翼賛会が精動化する第一歩でもあったのである。

 このようにして日本ファシズムが「体制として成立した」のですが、この大政翼賛会はその後(日本敗戦まで)どのような役割を担っていったのでしょうか。
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