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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(41)

大日本帝国の住民抑圧政策(8)

日本ファシズム論(7)



【ファシズム体制の成立(2)】

 新党運動に乗り出した近衛文麿が三つの文書を用いてその構想を語りましたが、その構想を改めてまとめると、次のようです。

 (1)
    全政党の解散を前提に自由主義的な民政党主流派(町田派)と政友会正統派中の鳩山派を除外した事実上の一国一党の結成をめざしている。
 (2)
    第二に新党は下からの盛り上がる国民政治力の結集体であり、人材を広く政党外に求める。
 (3)
    軍部の政治への容喙を排除し、統帥を国務に従属させて軍部を抑制しようとしている。

 つまり近衛たちは、一方では陸軍や「革新」右翼や親軍的政党人が唱えるナチス的な一国一党には反対し、さらに観念右翼や内務官僚が指導する精動運動を否定し、組織化された国民的政治力を背景として軍部・官僚を抑制しうる事実上の一国一党=近衛新党を構想していたのでした。
 そしてまた彼らは、新党運動という言葉がもつ既成観念を一新するため、新党のことを「政治新体制」とよぶことにしていたのでした。

   しかしこの構想には三つの重大な矛盾が内包されていました。そもそも、一元的な天皇制体制下での「政治新体制」が矛盾を孕むことは当然のことではないでしょうか。この論考の筆者はその矛盾を三点にまとめて、次のように論じています。


 第一は、国民再組織論と天皇制支配原理との矛盾である。
    既に述べたように、人民の自発性の喚起を重視し、国民政治力の結集をはかるという国民再組織論は、「天皇帰一」「承詔必謹」などの天皇制イデオロギーによる国民精神総動員方式 (=天皇制支配下における人民支配の基本的原理と運動)を修正するものであり、現実政治の次元では天皇制特有の官僚主義やセクショナリズムをはじめ国民再組織を阻害する要因を除去しなければならず、論理的には多元的な天皇制国家機構の改革にまでおよばなければ事態の本質的解決はありえないという矛盾をはらんでいた。
    それだけに改革を実施しょうとすれば軍部や官僚の抵抗が予想され、また「一国一人」という天皇制の支配原理を唯一絶対のよりどころとして精動運動を推進してきた勢力、とりわけ「観念」右翼にとっては、国民再組織論に根ざす近衛新党運動こそ反国体的行動であり、がまんならない性質のものであった。彼らは、近衛新党を「反国体」「幕府政治の再現」ときめつけてこれに反対した。
 こうした「一国一人」と事実上の「一国一党」との矛盾に逢着し、「国体」の壁にたじろいだ天皇主義者の近衛は、しだいに新党運動にたいする熱意を失いはじめるにいたった。

 第二は、新党の性格と治安対策との矛盾である。
    治安警察法は、すべての集会と結社を「政事」と「公事」の二種類に分類し、それらの警察にたいする届出を義務づけ、かつ現役軍人・警察官・神官・僧侶・官公私立学校の教員と学生生徒・女子・未成年者などの「政事結社」への加入を禁止していた。近衛は、新党への加入をすべての国民によびかけると語ったが、新党を「政事結社」とすれば右の人びとは排除され、「公事結社」とすれば参加は認められるが政治活動は禁止される。さきにあげた5月26日の「申合せ」の最後には「新党結成前に選任したる閣僚は必ず新党に加入すること」とあるが、これには陸海両相はふくまれるのかどうか。しかしこのような新党構成員の資格問題について、近衛らがどこまで詰めた議論をおこなっていたかどうかは疑わしい。
 それなら治安警察法を改正して二つの結社の区別を撤廃すればよさそうだが、これは天皇制下の治安対策の根本的修正であり、人民の本来的な自発性の噴出を本能的に恐れる支配者にとっては提起不可能な問題であった。

 第三は、新党の組織原理がきわめてあいまいであったことである。
    既存の国家機関とくに軍隊・官僚機構・議会などと新党との関係が不明確であり、かつ新党結成の方法と手段もあいまいなままであったため、軍部・官僚・政党人などの諸勢力が新党へのなだれこみを策し、そのなかで主導権争いを演ずるであろうことは始めから予想されるところであった。
    しかも近衛自身は、宮廷勢力と少数の側近以外に特定の政治基盤をもっていなかったから、統制派や「革新」右翼を抑制するためには皇道派や「観念」右翼を利用するという「毒をもって毒を制す」式の政治技術を身につけざるをえなかった。
    したがって組織原理があいまいなまま近衛が新党の党首になるとすれば、それはけっきょく支配層内各勢力の均衡と制御のうえに身をおく以外に道はなかった。その意味で近衛新党は、歴代の挙国一致内閣がもっていたのと同じ寄合世帯的な弱点をはじめから内包していたのである。


 近衛新党構想に内在するこれら三つの矛盾こそ、近衛を困惑させ、新党運動を変質させたばかりでなく、ひいては新体制運動を精動化させ、大政翼賛会を上意下達の行政補助機関たらしめる根本原因となったのである。
 また、ここでもヨーロッパの戦況が新党運動の成り行きに大きな影響を及ぼしていた。

 6月に入りドイツ軍のパリ占領が近づくにつれ、これに呼応するかのように新党運動は倒閣運動と交錯しながら急速に発展した。
 6月4日、近衛ははじめて新党問題についての抱負を記者団に語ったが、近衛新党にたいする陸軍の諒解がとりつけられていなかったため、かんじんの出馬問題にはふれなかった。
 6月10日、武藤章軍務局長は金光庸夫と会い、「近衛公の出馬、新党の結成には軍は挙げて賛成」であり、第二次近衛内閣の陸相には東条英機か阿南惟幾が適任であると言明した。
 米内内閣に不満をもつ陸軍は、倒閣=第二次近衛内閣の成立による内外政策の全面転換と、近衛新党によるナチス的な親軍的一国一党の実現とを期待していた。この会談内容は、なんらかの方法で近衛につたえられたと推測されるが、近衛は6月17日に犬養健をつうじて陸軍の意向を再確認のうえ、24日に枢密院議長を辞任し、「新体制」の確立に挺身するとの声明を発表した。

 新党賛成派は6月4日の近衛談話に色めきたち、新党へのなだれこみを策した。6月11日、加盟議員が議席の過半数をこえる約250名にふくれあがっていた聖戦貫徹議員連盟は、各党首に解党を進言したが、政友会の両派と各小会派は賛成し、民政党も方向転換の断行を宜言せざるをえなくなった。既成政党の新党派は、米内内閣への対決姿勢を強める一方、近衛新党のなかで主導権を確保することに活路を見いだそうとしていた。

 ナチス的一国一党を主張する「革新」右翼は、新党運動に積極的であった。6月23日、「革新」右翼団体の連合体である東亜建設国民連盟は、聖戦貫徹議員連盟と共同して国民時局懇談会を開催し、「時代錯誤的政治諸勢力の総退却を要求」した。
 ついで27日には聖戦貫徹議員連盟と島中雄三・角田順・矢吹一夫、津久井竜雄らが会合し、新党への「協力」を申し合わせた。そして東方会の中野正剛も「安達、末次、小生、橋本を招請せらるればその他は自ら疎通致すべく」と自信のほどを近衛に書き送っていた。
 これにたいし日本主義を唱える「観念」右翼は、新党がナチス的一国一党となることを恐れ、新党運動に「幕府政政治の再現」「公武合体運動」などの非難をあびせかけ、活発な運動を展開した。

 その間近衛は、出馬声明以後なに一つ新党運動のために積極的行動をとることなく、7月6日、政治新体制の構想をねるためと称して軽井沢へでかけ、27日まで滞在した。
天皇主義者の近衛にとっての焦眉の急は、「一番不愉快」な「反国体」「近衛幕府の再現」という「観念」右翼からの非難をかわすことであり、そのため彼は7月7日の記者会見で、わざわざ新体制が憲法に基礎をおくものであることを強調したのであった。
 しかし近衛は、新党の理論的基礎づけを依頼した矢部貞治からも「関白が首相となってから又挙国的政党組織をやるといふことは、国体上、憲法上、どうも疑はしい。幕府論になる」といわれ、さらに三上卓・菅波三郎らの元青年将校一派も軽井沢へ押しかけ、近衛に声明発表を強要するといったありさまであった。
 そのうえ新党の構想と運動方針はいっこうに具体化されなかった。

 かくて近衛は、「国体」の壁の厚さにたじろぎ、具体的な構想と運動方針を見出しえないまま、軽井沢滞在中に「新党」構想を放棄し、「新体制」構想、つまりのちの大政翼賛会のように、支配層内部のあらゆる勢力を無原則のまま丸抱えにして組織するという構想に移行していったのである。

 このようにして政局は一気に日本ファシズム体制への道を突き進むことになったのでした。ということで、次回からいよいよ「日本ファシズム体制の完成」つまり「大政翼賛会の成立」を取り上げることになりました。
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