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【ファシズム体制の成立(1)】

『昭和の15年戦争史(28)』 で、軍部が国政を牛耳るようになってきた苛酷な状況の下で、軍部に敢然と抵抗して議会で「反軍演説」を行った斎藤隆夫という政治家を取り上げました。この時の「反軍演説」事件が政党の自壊作用を早め政界再編成の気運を高めるきっかけとなったのでした。今回からのテーマ「ファシズム体制の成立」はここから始まります。

19401940年2月2日 第七五議会再開2日目、民政党斎藤隆夫が反軍演説を行う。

 この事件以降の政界再編成は次のように進んでいきます。

 陸軍は強硬に斎藤の処分を要求し、これに呼応して政友会「革新」派・時局同志会・社会大衆党・第一議員倶楽部は斎藤の懲罰除名を主張した。
 これに対し民政党と政友会正統派の中には除名反対の空気が強かったが、結局軍部などの圧力に抗しきれず3月7日の衆議院本会議で斎藤の議員除名が圧倒的多数で可決された。
 しかし採決にあたり政友会正統派の五名(牧野良三・芦田均ら)が反対投票を行い、社大党の十名(党首安部磯雄・鈴木文治ら旧社会民衆党七名と水谷長三郎ら旧労働農民党系三名)は欠席し、除名の党議に反対する行動をとった。
 そのため政友会正統派では、反対票を投じた五議員の処分方法に不満な西岡竹次郎らの親軍派五名が脱党して政友会新中立派を名乗ったほか、親軍的一国一党結成に積極的な久原派とこれに消極的な鳩山派との対立が激化した。
 民政党では、分裂の動きはなかったが、親軍新党運動に熱心な永井派とそれに反対する町田派との対立が深まり、特に町田派は各方面の「革新」派から集中攻撃を受ける破目になった。

 これに対し社大党では、1939年2月の東方会との合同によるファッショ的新党樹立の試みが失敗したのち、産業報国運動に便乗し国家社会主義的一国一党を唱える麻生久・亀井貫一郎・三輪寿壮らと、日本労働総同盟に依拠して産報運動に消極的な安部磯雄・松岡駒吉・西尾末広らとの内紛が表面化していたが、麻生らが斎藤除名の票決に加わらなかった一〇名のうち八名を除名したため、党は分裂し、安部らは勤労国民党を結成しようとして5月7日に結社禁止を命ぜられた。

 こうした状況を背景に、政友会正統派の山崎達之助・民政党水井派の山道嚢一らは、政友会正統派中の久原派、社大党麻生派、時局同志会および第一議員倶楽部各派の有志議員約百名を糾合し、3月25日、聖戦貫徹議員連盟を結成した。連盟は全政党の解消と「一大強力新党」の結成を旗印とし、政党側における新体制運動の推進母体となった。
 かくて政党の解体は必至の情勢となったのである。

 以上のような政党解消の動きの中から新体制運動が急速に高揚していきますが、その直接の原因は、ヨーロッパ戦線におけるドイツ軍の大攻勢による衝撃でした。ヨーロッパ戦線におけるドイツ軍の攻勢は次のように進行しました。

   1939年9月に第二次世界大戦が勃発して以後、東ヨーロッパでは独ソ両国によるポーランド分割やソビエトによるフィンランドおよび東欧諸国にたいする進出の動きが目立ったが、西部戦線ではドイツと英仏間には大戦闘がおこなわれず、いわゆる「奇妙な戦争」とよばれる状態がつづいていた。
 ところが1940年4月9日、ドイツ軍は突如ノールウェとデンマークに侵入したのち、5月10日には西部戦線で大攻撃を展開し、たちまちのうちにベルギー・オランダ・ルクセンブルグ三国を席捲、さらに6月5日からフランスにたいする総攻撃を開始し、14日にはパリを占領した。22日、フランスはドイツに降伏した。その間イギリスでは、5月10日にチェンバレン内閣がたおれてチャーチル内閣が成立し、6月10日にはドイツの勝利を信じたイタリアが英仏両国に宣戦した。ドイツは西ヨーロッパを制覇したかの観があった。

 ドイツ軍の勝利を契機に軍部とりわけ陸軍は、日独伊三国同盟の締結・南進政策の推進および政治新体制の樹立という内外政策の全面転換を要求して勢力を盛り返したのでした。民間右翼もこれに呼応して活発な活動を開始します。

 こうした動きを察知した久原房之助政友会正統派総裁は、4月30日の臨時党大会の席上、「一大強力政党」結成のためには解党辞せず」と演説し、その後各党を歴訪して同意をうながした。
 社大党麻生派などの小会派は、久原提案を積極的に支持したが、町田民政党総裁はこの提案に反対して政党連携を主張し、中島知久平政友会「革新」派総裁は静観の態度をとった。

 しかし、5月25日には聖戦貫徹議員連盟が正式に強力新党結成の方針を打ち出し、6月2日には中島総裁も連盟の方針を容認するにいたり、4日には金光派と新中立派よりなる政友会統一派が「政治新体制」への参加を表明して解党を決議した。そしてこれらの新党運動は、いずれも近衛の出馬を前提として展開されたのである。

 このような新党運動の動きのなかで、近衛や彼の側近はなにを考え、どのように行動したか。
 近衛が新党運動にのりだす決意を固めるにいたった主観的意図は、第1次近衛内閣のような「何等の輿論の後楯も無い」「中間内閣」を否定し、「既存政党とは異なった国民組織、全国民の間に根を張った組織とそれのもつ政治力を背景とした政府」を樹立し、「軍部を抑へ日支事変を解決すること」にあった。そして近衛新党の下部組織を固めるための理論として唱えられたのが、「ドイツのナチスの如く国民の政治組織化」にあるという国民再組織論であった。そこには官製国民運動を排し、下からの盛り上がる人民の自発性に期待する姿勢が示されており、具体的には有馬が指導する産業組合、近衛の友人河原田稼吉元内相が理事長をつとめる産業報国連盟、近衛側近の後藤隆之助を指導者とする壮年団のほか各種の婦人会や青少年団などの教化団体を新党のもとに再編成することが予定されていた。

 有馬頼寧の日記によれば、近衛は1940年3月下旬から新党問題に取り組む姿勢を示しはじめている。しかし近衛新党の具体的なプログラムとしては、5月26日に近衛・木戸・有馬の三者間で決定されたつぎのような「申合せ」が最初であった。それは次の四項目から成っていた。
「 (一)大命を拝する以前に於ては新党樹立は積極的にやらぬこと。但し政党側の自発的行動によって新党樹立の気運を生じる時は考慮すること。
  (二)大命降下ありたる場合考慮すべき事項
     (イ)陸海軍両総長、内閣総理大臣、陸海軍大臣を以て最高国防会議を設置すること。
       (ロ)陸海軍の国防・外交・財政に関する要望を聴取すること。
     (ハ)新党樹立の決意を表明し各政党に対し解党を要求すること。
  (三)総理と陸海軍大臣だけにて組閣し他は兼任とすること。但し情勢により二三の閣僚(例へば外務等)を選任すること。
  (四)新党成立の暁党員中より人材を抜擢して全閣僚を任命すること。新党結成前に選任したる閣僚は必ず新党に加入するこ     と。」

 ついで三日後の5月29日、近衛・木戸・有馬に風見章と太田正孝を加えた五名によって、つぎのような「申合せ事項」が決定された。
 「(一)政党側は左の目標により自発的に運動を開始すること、
     (イ)国防国家の完成、
     (ロ)外交の振張、
     (ハ)政治新体制の建設、
 (二)諒解事項(秘密)、
    (イ)既成陣営中参加せざるものに対しては対手とせざること(民政党の主流及び久原の一部)、
    (ロ)参加政党側の事実上の解党手続は新体制結成準備次第直ちに行ふこと、
    (ハ)広く人材を政党外に求むること」。

  さらに近衛と彼の側近たちとのあいだで当時作成されたと推定される「国務と統帥とについて」という文書のなかでは、大命拝受の条件として「国防会議」の設置のほかに、
 「(一)軍が直接政治に干与せざること(要すれば大本営命令を出す)、
     (イ)陸軍省、参本、海軍省、その他軍付属庁の機構改革並に整理(情報の統合を含む)、
     (ロ)関東軍並に支那総軍の編成替(特務部廃止、特務機関の任務を明確にすること等を含む)、
  (二)駐支、在満軍隊の政治機構に改革を行ひ、直接政治に干与せざることとすること」
 これらの数項目について
 「大本営との諒解を遂げ御前会議の決定を経べきなり。その諒解決定を得ざる場合は大命を拝辞すべきが国家を思ふ忠誠の所為なりと信ず」
というように、思いきった軍政改革構想がのべられている。


 以上のような近衛新党構想には重大な矛盾が内包されています。(この問題は次回で)
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