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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(40)

大日本帝国の住民抑圧政策(7)

日本ファシズム論(6)



【権力集中をめぐる政争(2)】

 前回は
「国家総動員法の成立に伴って、新党運動が挫折し、衆議院の解散も立ち消えになった」
ところまで読みました。今回はそれ以後の政争を追っていきます。

 前回に「15年戦争」下の挙国一致内閣」のトラウマとなった事項として
 「人民の組織的抵抗を排除することには成功しながら、……つねに戦争と国際政治の圧力にふりまわされることになった」
という指摘がありましたが、 「国家総動員法」成立後の政局はこのトラウマに振り回されながら、着実に「ファシズム体制」の道を進んでいきます。

 これも前回取り上げたことですが、近衛首相は1938年1月16日に「国民政府を対手とせず」との声明を発表し和平交渉を中止してしまいました。
 その後、1938年4月7日~5月19日に徐州作戦(中国軍の抗戦意志を喪失させようとした作戦で、中国の徐州付近に集結した中国軍70個師団を日本軍が南北から挟撃)が遂行されました。

 その徐州作戦終了直後の5月から6月にかけて、近衛首相は、局面打開のために内閣改造(字垣外相・池田蔵相兼商工相・荒木文相・板垣陸相入閣)を断行します。さらに内閣の強化のため、

6月10日 最高国策検討機関として五相会議(首・外・蔵・陸・海相)を設置。

 しかし対外政策の面では日中和平交渉と興亜院設置問題をめぐる対立から9月30日に宇垣外相が辞任(後任有田八郎)します。
 また、日独伊防共協定強化問題ではその対象をソビエトに限定しようとする近衛・有田・池田・米内と英仏をもふくめよという板垣・末次の意見が対立します。
 また、対内政策の面では議会での公約に反して国家総動員法の発動が陸軍省や内務省から強要され、池田がこれに反対します。

 このように、基本国策をめぐる支配層内部の対立が目立ってきましたが、その間政界の裏面では、各種の新党運動がひそかに進行していました。
 7月2日には国民精神総動員運動の不振にあきたりない有馬農相が国民再組織論にもとづく政界再編成を近衛首相に進言し、
 8月下旬から9月上旬にかけて近衛が新党運動に積極的であるとの情報が政界に流れました。これをきっかけに近衛の擁立を前提とする新党運動が表面化します。その主な推進勢力は次のようです。
(80年も前のことであり、登場してくる人たちは全て未知の人たちですが、一応そのまま転載しておきます。)

 産業組合青年連盟を背景とする有馬頼寧のグループ
 後藤隆之助らの昭和研究会、
 一国一党論の久原房之助グループ
 前田米蔵・中島知久平・桜内幸雄ら政民両党内の「革新」派グループ
 風見章のグループ
 秋田・秋山・麻生・亀井らのグループ

 このうち具体的な新党計画を持ちある程度組織的に行動したのは秋田らのグループでした。
 このグループは「既成政党の解消を前提とする一国一党=大日本党」を構想していました。そのグループの「大日本党部綱領」によると、その党は、
『「国体ノ本義」を立党の精神として「国民各般ノ組織ヲ指導」「皇謹ヲ翼賛シ聖慮ヲ安ンジ奉ル」』
ことを目指していました。
 木坂さん(この論考の執筆者)はこの新党運動の問題点を次のように指摘しています。

 ここで重要なことは、
 第一に新党と各国家機関との関係が明示されていなかったことであり、
 第二は大日本党部を頂点とする「国家ノ新体制ヲ整備完成スル」ことが、「反共圏ノ確立」による「新世界秩序ノ樹立」、とりわけ「東洋国家協同体ノ実現」をはかることと表裏一体と なってl認識されていたこと、すなわち新党結成が帝国主義的侵略のための体制づくりとして考えられていたことである。

 なぜなら前者は、のちに述べるように新体制運動のなかでも問題にされ、大政翼賛会が精神運動家化する重要 な原因となり、後者も大東亜共栄圏建設のための新体制樹立という認識と同一次元のものであったからである。

 こうして各種の新党運動が交錯するなかで、9月下旬から三相会議(末次内相・塩野法相・木戸厚相)が新党構想の検討を開始し、10月末にはナチス的一国一党の色彩が濃い「大日本皇民会案」ができあがった。

 ところが近衛は、10月22~25日になんらかの心境の変化をきたして新党運動を放棄し、精神運動中央連盟の改組による官製国民運動指導体制強化の方向へ方針を転換したため、新党運動は画餅に帰した。

 以上のように新党運動挫折の直接の原因は、近衛の変心と新党運動を担ったグループのカ量不足でしたが、日中戦争と国際政治の圧力による政党政治の大混乱も新党運動挫折の大きな一因だったのです。論考のその問題を論じている部分を直接転載しておきます。

 1938年10月下旬に広東・武漢作戦が終了しても政府は日中戦争解決のめどがつかめず、ヨーロッパ情勢も1938年3月の独墺合併以後のドイツの東方領土侵略政策よって戦争の危機がさしせまったが、小国の犠牲によって 侵略者と和解するという英仏両国の宥和政策の結果、9月30日にミュンへン協定が調印され、戦争の危機は一時回避された。
 しかしヨーロッパ情勢が流動的であるため、日独伊防共協定強化問題をめぐる支配層内部の対立も容易に氷解せず、国際政治の圧力を利用して新党運動を推進するといったような状況はついに生まれなかった。
 そして近衛内閣は、11月から12月にかけて東亜新秩序声明と近衛三原則を発表したのち、1939年1月4日に総辞職した。

 後をついだ平沼・阿部・米内の三内閣は、新党運動にたいしていずれも冷淡であり、権力集中への道を模索したが失敗し、泥沼化した日中戦争の現状と変転する国際情勢に対応した確固たる軍事・外交政政策を確立しえず、いずれも挙国一致内閣の弱点をさらけだして短命に終わった。
 まず1月5日に成立した平沼内閣は、日独伊防共協定強化問題をめぐって小田原評定をつづける一方、南進政策(海南島・新南群島・汕頭(スワトウ)・福州などの占領)と北進政策とを同時に遂行したが、ノモンハン事件で大打撃をうけて北進に失敗し、独ソ不可侵条約締結の衝撃を受けとめきれずに、8月28日総辞職した。

 ついで8月30日に成立した阿部内閣は、9月3日に勃発した第二次世界大戦への不介入と日中戦争解決への邁進を声明し、日独伊防共協定強化交渉の打ち切りとノモンハン停戦協定の調印によって平沼内閣から引きついだ外交課題を処理したのち、野村吉三郎を外相に起用し、対中国政策の修正と米ソなどに対する「協調外交」を展開しようとした。
 しかし現実の対中国政策、とりわけ「江兆銘をして新政権を立てしむるの件は現下陸軍の謀略として取り扱う所」となっていたため、その修正は不可能に近く、日米通商航海条約廃棄をめぐる対米関係の調整も、日本の中国独占政策阻止を主張するアメリカとのあいだで折り合いがつかず、1940年1月27日から日米両国は無条約時代に突入した。

 一方阿部内閣は、権力集中を実現するため、平沼内閣時代の五相会議を廃止して全閣僚10名という少数閣僚制をとって発足し、9月30日には枢密院の審議をへることなく、国家総動員法などの施行に関する首相の指示権を認めた勅令を公布・施行した。
 しかし少数閣僚制は、支配層内部の抵抗にあってわずか一ヵ月半で原則を放棄することになり、貿易省設置問題では外務省と正面衝突して方針を撤回し、官吏の身分保障制度撤廃の企ては枢密院の反対にあって無期延期となるなど、阿部内閣はその弱体ぶりを暴露した。

 そのうえ戦時統制経済の矛盾の深化によって国民生活の不安がひろがり、政党はそれを口実に公然たる倒閣運動を開始し、1940年1月7日には内閣不信任署名代議士276名の氏名が公表された。秋田厚相と永井逓相は、衆議院解散強行論を唱え、阿部首相もこの意見にかたむいたが、陸軍は選挙期間中に反戦反軍気運が高まることを恐れて解散に反対し、江兆銘派との間で妥結をみた「日支新関係調整要項」が1月8日の閣議で承認されるのを待って、政府に退陣を勧告した。かくて1月14日、阿部内閣は総辞職に追いこまれた。

 1月16日に成立した米内内閣は、その親英米的・現状維持的性格のゆえに、陸軍やそれと提携する「革新」派からの攻撃にさらされなければならなかった。1月21日の浅間丸事件をきっかけとする反英運動の高揚は、その最初の現れであり、2月23日に松井石根・末次信正・松岡洋右の三名が米内首相の留任懇請をふりきって内閣参議を辞任したのは、その第二のあらわれであった。

 また米内内閣は、外交面では陸軍の主導する東亜新秩序建設路線に押され、3月30日に汪兆銘の「国民政府」を成立させ、4月以降ヨーロッパ戦局の急展開を契機に陸軍を中心に高まってきた南進論に対応し、仏印・蘭印・タイへの進出を企図したが、これらの措置は蒋介石政権との和平交渉の道をみずからとざし、かえって対米英関係を悪化させる結果をまねいた。

 このように平沼・阿部・米内の三内閣は、日中戦争の解決・対欧米諸国との関係の調整・国家総力戦体制の樹立といった政治・軍事・外交の基本課題の解決に失敗したばかりか、深刻化する経済危機を打開することもできず、政局の混迷状態が1年以上にわたって続いた。そのため国民の不満やいらだちは内訌し、しだいに現状打破のための強力政治体制の実現を待望する気運が高まり、やがて新体制運動が展開されることになるのである。

 この「新体制運動の展開」により「ファシズム体制」が成立していったのでした。次回から「ファシズム体制の成立」に入ります。
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