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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(39)

大日本帝国の住民抑圧政策(6)

日本ファシズム論(5)



【権力集中をめぐる政争(1)】

(ごめんなさい。ついつい1週間ほど空けてしまいました。再開します。)

 第一次近衛内閣(1937年6月4日~1939年1月5日)の緊急課題は「天皇制の多元的国家機構を整備統合し、支配層内部の対立を一掃して強力な権力集中を実現すること」でした。
 この課題は日中戦争勃発後に「挙国一致を目指す政治・軍事体制の整備と新党運動による政界再編成の問題」へと展開していきました。

 ではまず、近衛内閣成立に至るまでの「挙国一致」政策の推移を確認しておくことにします。

1932年 五・一五事件勃発
 この事件以後に成立した斎藤実内閣以後の歴代内閣は、いずれも軍人・官僚または宮廷政治家を首相とする挙国一致内閣でした。
 斎藤・岡田啓介両内閣は、軍部・官僚・政党・財界など支配階級内部の各勢力の微妙なバランスのうえに成立していました。

1936年 二・二六事件勃発
 この事件を契機に支配階級内部のバランスがくずれ、その後は軍部が政治の主導権を掌握していきました。
 このような政党政治を抹殺したような挙国一致内閣の成立は、これまで曲りなりながら実現していた普通選挙を基礎とする国民代表制の原理が人民統合の機能を果しえないまま空洞化したことを意味していました。
 しかもこの挙国一致内閣は、普通選挙にかわる新しい人民統合の政治原理を創造したわけではなく、「挙国一致」という抽象的スローガンをかかげたに過ぎなかったのですから、そのことによってただちに強力な国民的基盤をもつ政治主体に成り得ないのは当然なことでした。
 また、軍部が政治の主導権を掌握したといっても、挙国一致内閣はしょせん支配階級内各勢力の寄合世帯にすぎず、各勢力は国民的基盤を欠いているためにかえって挙国一致内閣に依存せざるをえず、かつ現実の政治判断をくだす場合には、「挙国一致」の名のもとに自己の利害を主張することになり、それがまた各勢力間の新たな相剋と対立をひきおこす原因にもなっていたのでした。そしてこの相剋と対立のくりかえしは、つねに政治的不安定をもたらす重大な要因となり、その政治的不安定は逆に戦争と国際政治の圧力がつねに国内政治の動向を規定し左右する条件になっていったのでした。
 その結果、15年戦争下の挙国一致内閣は、人民の組織的抵抗を排除することには成功しながら、いずれも短命におわり(もっとも長かった東条英機内閣でさえ2年9ヵ月)、重大な局面に遭遇しても主体的かつ的確な判断をくだしえず、つねに戦争と国際政治の圧力にふりまわされることになったのでした。そのうえ天皇制国家機構は、その頂点に立つ天皇による以外には統合のすべをもたないという多元的性格をその本質としていたのでした。
 近衛内閣はこうした挙国一致内閣と天皇制国家機構がもつ矛盾を解決しうるかどうかという深刻な問題と対応する課題を担うことになったのでした。

 続いて、近衛内閣成立((1937年6月4日)後の政治動向の推移を見てみましょう(以下、一部書き換えがありますが、資料の論説を転載します)。


 近衛内閣による権力の集中は、行政権の強化と国務・統帥の矛盾解決をめざしてすすめられた。すなわち
  1937年9月25日
    内閣情報委員会の内閣情報部への昇格による言論・思想統制と報道・宣伝のための機関の整備、
  10月25日
    内閣参議設置、
  10月22日
    木戸幸一の文相就任による天皇側近との結合強化、
  10月25日
    企画院設置、
  10月27日
      郷誠之助・池田成彬ら財界巨頭6名の大蔵省顧問任命、
1938年1月22日
      厚生省設置、
    4月1日
      国家総動員法公布

 などの措置がそれであった。また政戦両略の一致について近衛首相は、
  (一) 憲法改正による統帥権の首相への移譲、
  (二) 首相の信任する少数閣僚と陸海相による戦時内閣制、
  (三) 首相の大本営列席
  という三方法を考えたが、いずれも閣内の同意がえられず、日の目をみなかった。

そこで1937年11月20日、大本営の設置と同時に大本営政府連絡会議が創設されたが、たんなる連絡機関であって決定機関ではなかったために十分な機能を果すことができなかったばかりか、1938年1月16日の「国民政府を対手とせず」声明による和平交渉中止問題をめぐり、多田駿参謀次長の強硬な反対によって会議が紛糾したため、それ以後は自然休会となった。 そこで
1937年11月20日 大本営の設置と同時に大本営政府連絡会議を創設

 しかしこの会議は単なる連絡機関であって決定機関ではなかったために十分な機能を果すことができなかったばかりか、

1938年1月16日  「国民政府を対手とせず」声明による和平交渉中止

 という問題をめぐり、多田駿参謀次長の強硬な反対によって会議が紛糾したため、それ以後は自然休会となった。
 その後平沼騏一郎・阿部信行・米内光政の三代の内閣のもとでは、連絡会議は一度も開催されず、国務と統帥の矛盾は解決されなかった。

 このような動きとならんで、1937年暮から新党運動が起こってきた。
 既成政党は、すでに政権の中心から疎外されていたとはいえ、その拠点である衆議院は憲法によって一定の地位と権限を保障されており、いかなる内閣も衆議院安定した与党を持たないことには政局の運営が困難であった。そのため挙国一致内閣は、つねに既成政党の与党化に腐心しなければならなかったし、反対に既成政党は有権者のエネルギーを掘り起して国民的基盤を固めることよりも、国策に順応して内閣に協力するか、あるいは挙国一致を旗印に新政党を結成して衆議院で圧倒的多数派を形成する方が、政権の中枢部へくいこむ近道であった。
 また政治の「革新」=ファッショ化を主張していた小会派や一部の無産政党は、政治の先物買いによって自己の存在を印象づける手段として新運動にとりくむ傾向が強かった。 挙国一致内閣のもとで多くの新党運動があらわれた害はここにあり、各派による近衛擁立の新党運動もまたその一つであった。

1937年12月 南京占領

 この戦捷に国内が歓呼にわきかえり、第七三議会の開会がせまるなかで、政友・民政両党の議員からなる常盤会が、両党合同による新党樹立を提唱した。この動きは、両党の主流派を動かすにいたらなかったが、1938月1月には政界の黒幕秋山定輔配下の右翼中溝多摩吉がひきいる防共護国団が、既成政党の解消と挙国新党の樹立を唱えて代義士を歴訪し、2月17日には政友・民政両党本部占拠事件を引き起して政界に衝撃をあたえた。中溝の背後には近衛がいたといわれ、さらに社会大衆党の麻生久や亀井貫葺一郎、第一議員倶楽部の秋田清らも秋山と結んで近衛新党結成に動いていた。
 ときあたかも第七三議会の衆議院では、国家総動員法の審議が難航中であり、閣内には末次内相のように新党樹立と解散・総選挙によって政局安定をはかろうとする意見もあったが、政民両党の腰くだけによって国家総動員法が成立し、近衛自身も出馬の意志を示さなかったので、新党運動は挫折し、衆議院の解散も立ち消えとなった。

         (この項、次回に続きます)
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