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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(38)

大日本帝国の住民抑圧政策(5)

日本ファシズム論(4)



 本道に戻ります(前々回の続きということになります)。

 日本ファシズムを体制として成立させた大政翼賛会の結成にいたる前提条件が「国民精神総動員運動」と「産業報国運動」の大規模な展開だったのでした。 前々回では「国民精神総動員運動」の展開の経緯とそれが全くの官製運動だったことを学習しましたが、今回は「産業報国運動」の展開を取り上げます。

 産業報国運動も国民精神総動員運動と同様、日中戦争の勃発にともなう国家総力戦体制の樹立と生産力拡充政策推進の一環として展開されましたが、  それはまず、懇談会や工場委員会制度のような労資協議機関の運営を中心に産業報国運動を推進しようとする内務官僚と 企業活動への官僚の介入を排除し「労資一体」の精神運動として展開しようとする資本家との間での、対立と妥協として展開されていきました。

 官憲の側では労働運動対策として産業報国運動が取り上げられました。その端緒となったのは愛知県工場課が立案した
1937年10月 時局対策労資調整案」
 でした。これを一部修正して、愛知県警察部が公表したのが
1938年2月 「労資調整組織案」
 です。
 この案は「産業報国」「国体に基く労資一体」の指導理念のもとに、各工場に労資双方を構成員とする工場懇談会を組織させ、 そこで労働時間・賃金・労働災害防止・職工養成訓練などの問題をとりあげさせることを提案していました。
 しかし資本家側は、企業にたいする官僚統制を懸念してそれに反発し、労働組合側も同案が組合そのものを否認していることに不満を表明したため、 同案は廃棄されました。

 一方戦時下の新たな労働政策を模索していた協調会は、国民精神総動員運動に協力しかつ軍需工業動員法の施行を円滑にするため、 1937年9月から11月にかけて主要工業都市で戦時労働対策懇談会を開き、翌年2月2日にはこの懇談会をもとに政界・財界・官界・軍部の代表 31名からなる時局対策委員会を設置しました。

1938年3月30日 「労資関係調整方策」を決定
 時局対策委員会内の第二専門委員会が「労資関係調整」問題を審議したのえすが、ここでも産業報国運動の国民精神総動員運動化を 主張する財界代表と懇談会中心の運営を主張する厚生省および松岡駒吉が対立しましたが、結局は双方妥協のうえ第二専門委員会が策定した 「労資関係調整方策」が総会で正式決定され、4月28日に近衛首相以下の関係各大臣に手交されました。

 これに対し全国産業団体連合会は、6月16日、
「産業報国運動ハ産業部門ニ於ケル国民精神総動員運動ノ一翼トシテ出発スルモノナルコト」
を強調する決議を行い、政府に圧力をかけました。財界は、企業活動への官僚の介入と同時に、懇談会が労働者の不満のはけ口となることを 恐れたのです。
 いずれにしても1938年2月以降、産業報国運動のプラン作りが急速にすすんだ背景には、国家総動員法の制定に象徴される内外情勢の進展 とならんで、日中戦争の勃発後激減した労働争議が1938年にはいると増加しはじめてその争議が戦時体制下の矛盾のしわ寄せをうけた未組織労 働者のあいだにも広がる傾向があらわれてきたという事情があったのです。

(以下、その後の経緯は原文をそのまま転載します。)


 かくて近衛内閣は、7月30日、産業報告運動の中央指導機関として産業報国連盟を発足させ、理事長には河原田稼吉元内相、理事には本間精内務省警保局長・横溝光暉内閣情報局長・膳桂之助全国産業団体連合会常務理事・三輪寿壮社会大衆党代議士ら9名がそれぞれ就任した。 そこには労働組合代表は一人もみられず、産業報国運動ははじめから労働者不在の官製国民運動として出発した。

 同時に発表された「綱領」は、「国体の本義に則り」「産業報国の実を挙げ以て皇運扶翼の仕命を完了せむことを期す」とし、 「労資一体」「事業一家」の実をあげることを宣言したのである。

 ついで8月24日、内務・厚生両次官名による「労資調整方策実施に関する依命通牒」が知事あてに発せられ、労働者選出委員が参加する懇談会をもった企業単位産報会の結成が奨励・指導されたが、資本家側はこれに不満であった。そこで産報連盟理事会は、一方では「産業報国会規約例」を作成して資本家側が懇談会の労働者委員を任命しうる道をひらき、他方では産報連盟の事業を機関誌発行・指導者養成・講習会開催などに限定しつつ、同時に産報連盟と企業単位産報会との関係を強制的なものとしないとの措置をとらざるをえなかった。そして産報連盟は、9月中旬から10月にかけて厚生省や地方官庁と協力して資本家にたいする産報会結成奨励のための懇談会をひらいたが、実際に各地で産報会の結成を指導したのは道府県警察部であった。

 このように産報連盟は、地方組織をもたず、また企業単位産報会の連盟への加盟が任意であったため、1938年末の企業単位産報会数1158のうち連盟へ加盟したものは23、1939年3月になっても30余を数えるにすぎなかった。その原因は、なによりも「官憲からすすめられたから」産報会を作るという風潮が労資双方に根強かったことにあり、また懇談会の運用についても、待遇問題をとりあげる場合には、紛争予防のため警察が労働者委員を事前に呼び出して自粛を命ずるか、または臨席して適宜発言を抑えることが少なくなかったから、労働者の自発性喚起というにはほど遠い状況であった。

これにたいし1938年10月末日の全国産業団体連合会常任委員会では、産業報国運動の官僚主義化を批判し、産業報国運動を民間の自発的運動とするために産報連盟を強化すべLという意見が支配的であった。しかし産報連盟にはその要求に応ずるだけの力量がなく、結局1938年4月22日、産報連盟は平沼内閣にたいし産業報国運動への積極的指導を要請するとともに、自らは政府の指導に協力する立場を表明した。そこで政府は、4月28日、内務・厚生両次官通牒「産業報国連合会設置に関する件」を知事あてに発し、知事(東京府は警視総監)を会長とする道府県連合会と、その下に警察署管区を単位とする支部連合会を結成するよう指示し、ここに中央機関の産報連盟と企業単位産報をつなぐ組織が完成した。
こうして内務官僚と警察は、財界の意向と妥協しつつ産業報国運動の指導権を掌握するにいたったのである。

 これを契機に企業単位産報会の多くは、道府県警察部の行政指導によって結成された。産報会の設立状況は、1939年と1940年の一企業単位産報会あたりの平均会員数を比較すると、111名から47名へ減少しており、それは企業単位産報会が中小企業を中心に急増したことを示していた。かくて産報会は、その内実はともかくとして、1941年12月には全労働者の70%を組織することに成功したのである。

 産業報国運動の展開は、労働組合や無産政党に大きな衝撃をあたえた。まず日本主義を横棒する労働組合は官憲と一体になり、産報会結成の尖兵の役割を果たした。しかし産報会の結成が具体化すれば、既存の労働組合の存廃が問われることになり、混乱を恐れた官憲は、産報会設置を理由に「労働組合の解散を強ふるが如き挙に出づることは之を避けしむること」を注意したが、これによって現実の動きを押えることはできなかった。すなわち社会大衆党は、労働組合の解散による産報会一本化の方針に全面的に賛成し、同党組織部長で代議士の三輪寿壮を産報連盟理事におくりこみ、日本労働組合会議はやや消極的ではあるが産報連盟に協力した。これにたいし全日本労働総同盟は、すでに自身の手で「産業報国」の実をあげていることを理由にいちおう産業報国運動を批判したが、消極的協力を表明せざるをえなかった。こうして1940年7月から8月にかけてほとんど全ての労働組合が解散し、産業報国運動の第一の目的は達成されたのである。

 以上のべたように、国民精神総動員運動精動運動と産業報国運動は共に、内務官僚と警察が指導する官製国民運動として展開され、いずれの場合にも運動がもつ警察取締り的性格と人民の自発性喚起との矛盾が露呈されていました。しかも常に官権が人民の自発性を圧倒する形で運動が発展していったのでした。

 そして、1940年の新体制運動が展開される重要な要因がもう一つあります。政党政治の自壊です。 次回はそこに至る「権力集中をめぐる政争」を取り上げます。
 
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